【小説 津軽藩起始 浪岡編】第九章  水谷利実凶死 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月六日

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顕範の血

9-1 諦め

進んだ時を戻し旧暦七月三日夜、あの浪岡御所が落ちた日。

敗軍の将である北畠顕忠はひたすら大豆坂街道を東へ向かっていた。従うのは兵十名ほどで、最初こそ走っていたが、次第に早歩きに、そして疲れはてて道すがらのヒバの林にて足を止めてしまった。……馬など用意できるはずもなく、かえって他の兵らよりも鎧兜が重いのでたいそう疲れはてている。


……林の向こうでは、夜中だというのに人が絶えることはない。決まって右から左、いや西から東へと人は歩む。誰もこちらへ気を留めない。……この道を進めば王余魚沢の砦へ着くし、さらに山を越えさえすれば同じ浪岡北畠家臣の土岐氏の高田館へも行ける。浪岡の民百姓にとっても馴染みは多かろうし、近すぎる大釈迦に比べれば安全な避難先だろう。いくらか考えの深いものが選ぶ答えだろうか。


ならば、私もこのまま逃げて王余魚沢にでも入ろうか……。いやいや、入るつもりで逃げてきたではないか。今更何を言う。だが……心底疲れはてた。……いまだ浪岡がどうなったなどわからぬし、賊徒らあくまで賊を騙った偽の集団に違いない……そう顕忠は確信していた。強く疑わしいのはもちろん津軽為信であるが、南部側が謀った可能性だってある。……真相を知りたいのなら、いま来ているだろう本隊の旗ざしを見れば一目瞭然。……引き返して見に行く気など起きようもないが。

それに浪岡を守りきれなかった責任は、誰かが取らねばならぬ。私がまさしくその任に適する者である。……と思うと、心残りなのは油川にいるであろう息子の顕氏。南部氏からは無碍に扱われることはないだろうが、幾度となく南部に盾突いた顕範の直系。優遇はされまい。苦しい暮らし向きが目に浮かぶ。

9-2 命断つ

以前より私の中には父の顕範と同じように、“南部氏には従いたくない”という気持ちがあったのだろうか。それとも今更ながら芽生えてきた感情なのか。……賊の正体が為信の兵だとして、南部へ助けを求める。一生頭が上がらなくなるだろう。あの強勢を誇った名門が、人の助けなしにはやっていけぬ。逆に賊徒が南部の手引きだとしたら……よくよく考えると、ありえないことがわかる。少しだけ時間を費やせば、外ヶ浜の軍勢を浪岡へ置くことができたのだから。……いや、実効支配を強めるための策かもしれぬ。ほら、やはり独立独歩では立ち行かぬであろうとでも言いたげに。

考えても埒が明かぬ……敗軍の将は、兵を語らぬべきだ。黙って胡坐をかき、腰の太刀を鞘から抜く。偶然にも隣にいた者に、介錯を頼む。……当然の如く、兵らは顕忠の暴挙を諌めようとする。だが腹が決まった以上、考えをかえるつもりはない。

兵らは思った。ここに集いしは源常館に長きに渡り仕えた者ら。故にこの一族の考え方というのは重々承知している。……行動が違えども、内なる原理は全くもって同じ。どんなに説得しても、殿の考えを変えることはできない。

日は変わり旧暦七月四日の未明。北畠顕忠は自害した。道行く人々には見えぬようにわざと奥へ奥へと進みゆき、元来た方から音が聞こえなくなった処を見計らい、改めて顕忠は茨に座す。兵は勢いよく刀を振り下ろして首を切ったという。


……皆々涙し、後追いをしようと考えた。だがそれは顕忠より止められていた。息子の顕氏を頼むとの一言で、生きる理由が与えられたのだから。……定説によると浪岡御所陥落の同年に“病死”したとなっているが、これこそ疑わしい限りである。

9-3 難派

日を送って旧暦七月五日。

…………


油川の南西の山向こう、最初は黒い靄のようなものが映った。だが季節がら靄が見えるはずはないし、いったいなんだろうと民衆らは訝しんだ。すると次第にそれが煙だと判り、さらには火の手によるものだと判ったのは昼頃になってから。

南部代官で油川城主の奥瀬善九郎は悟った。浪岡は完全に津軽為信によって制圧されたと。これで津軽つがる山辺郡は敵方に落ち、油川を含む外ヶ浜が南部氏の防波堤となる……。

奥瀬はいつも、平和裏に事を進めることを好む。戦をなるべく避け、必要あらば兵も出すが、それはあくまで大きな戦を避けるため。屈強な武者ぞろいの南部氏には珍しく、柔軟な考えの持ち主だったらしい。背景として生まれ育った”油川”という土地が影響しているかもしれない。武士よりも商人が圧倒的に多く、かつ人が激しく入れ替わる。しかも強い門徒宗(=一向宗)の拠点でもある。あの織田信長に激しく抵抗した本願寺である。中央の感覚でいえば、商人の町である堺と宗教都市の石山が同居しているようなものだ。この二つと常時より接しているものだから、正面から対立しても歯が立たぬことを十分理解している。いつしか戦よりも交渉や折衝に重きを置く性質になっていただろう。


このやりかたが果たして為信に通じたかどうかは定かではないが、結果として浪岡制圧から七年も耐えたのだから、南部氏の援けがなかなか及ばなかったことを考えると十分に力はあったはずだ。天正一三年(1585)為信侵攻時には犠牲を出さないように自ら兵を引いたのは、すでに勝敗が明らかだったからだ。何も無駄な戦をする必要はない。だからこそ戦わずして逃げたという汚名はついたが。

奥瀬はこの時、浪岡に兵を出さない決断をした。南部津軽両軍の直接対決を避けたのだ。どちらが勝つか知れぬ以上、兵は出せぬ。

9-4 巧妙

奥瀬の浪岡へ出兵したがらぬ態度に滝本重行は激怒した。油川城の二の郭にて、浪岡が落ちたその日からずっと滝本は奥瀬を説得しようと試みたが、彼は首を縦に振ることはなかった。かといって奥瀬にとっても滝本の言っていることは、非常に心へ刺さった。滝本を無理やり浪岡から引きはがした片方の当事者は奥瀬であるし、あのまま滝本が浪岡で目を光らせてさえすれば浪岡御所は今も平和だったかもしれない。


煙の見えたその日も奥瀬と滝本、さらには油川にて難を逃れてしまった北畠顕氏と水谷利実で話し合いというか、罵倒の仕合が始まった。主に罵るのは滝本で、うまい具合にかわすのが奥瀬の役目。その様を何もできずにいるのは顕氏と水谷の二人。


「だからいわんこっちゃない。先ほど知らせによこした者によれば、いまだ抵抗しているのは水谷殿の水木館のみ。土岐殿は馬を走らせ浪岡へ向かったが、あえなく敗北。朝日と菊池は日和見。相馬は姿すら見せておらぬ。こうさせたのはどこの誰か。」


そういうと滝本は近くにあった腰掛を投げ飛ばした。それは奥瀬の座る横へ抜け、奥の屏風へ直撃。南天を小鳥がかわいらしくついばむ絵であったが、ちょうど真ん中より破れ、半端に釣り下がって垂れている歪な状態。


「……ならば滝本殿。あなたこそ向かえばよろしいではないか。土岐殿と一緒でもよろしかったのに。きっと浪岡へ着けば、大層なお出迎えで民百姓は喜ぶでしょうな。」


「うるさい。さっきからねちねちと。俺を謀る気か。」


「謀るもなにも。それにあなたは横内の城兵を我が物となされた。今こそ使うべきではありませぬか。」


つまり滝本のなぜ外ヶ浜全体で動かなかったのかという怒りを、ではなぜ滝本一人だけでも動こかなかったのかと逆に尋ねて逸らしている。

9-5 名を継ぐ

「話にならぬ。」

滝本はイラつき、そのまま一室よりでていった。閉めようと襖戸に手を付けたが、勢いよく柱とぶつかり少しだけ開いた状態で止まった。……隙間より外を見ると、さっそく草履をはいた滝本が大股に歩き、城の警護兵を後ずさりさせていた。唾を吐き、門より出ていく。


奥瀬は“やれやれ”といった感じであるが、旧浪岡北畠の者にとってはこうも対立しているとどうも頼りずらい。顕氏と水谷は互いの顔を見合わせ、どうすればよいか問おうとするも、答えのなさそうな顔だなと元の方へ向きを戻すのである。

奥瀬はそんな二人を見て語りだす。


「すまぬの……南部の者同士がこうもいがみ合っていては、さぞ心配であろう。」

あわてて二人は奥瀬へ頭を下げる。初めに水谷が応える。

「いえ……奥瀬殿のお気遣い、感謝しております。滝本殿には滝本殿の、奥瀬殿には奥瀬殿のやり方があるだけ。重々承知しております。」


次に顕氏。

「水谷と同じく。ただ……滝本殿の言うように、機を逃したのはなんとも。」

知らぬうちにケチをつけていた。ただそれは浪岡を思えばこそ。何も奥瀬への反抗ではない。……奥瀬はそうとう器が大きい人物であるので、そのくらいで怒ることはない。


「無論。外ヶ浜衆としても浪岡を取り返す手立てを考える。敵方も無法者ばかりの集まりではない。交渉次第ではいくらでもできる。……顕氏殿。御身を大事にされよ。」


顕氏は頷きこそすれ、言葉では返さなかった。南部家中の弱腰、もちろん奥瀬が軟弱ではないことはわかっているが、今のままでは一向に浪岡を取り戻せないだろう。心の中には、何か別の道があるのではないかと思い始める。

……後に彼は浪岡復活を誓い、顕氏の名を顕則と改める。読みはアキノリで、祖父の顕範そのもの。漢字こそ違えど、最終的には浪岡の独立独歩を目指す。領土すらないことを考えると顕範以上に現実離れした夢だが、それでも実現すべく動いていくこととなる。

あせり

9-6 忍び寄る陰

……油川の者は自分たちの住む土地を“大浜”と呼ぶが、“俺たちの港が日本一だ”という自負があるからである。平成の世では大浜でこそなくなったが、海へ行くことを“浜に行く”と言うのはその名残である。

その大浜では浪岡が落ちても大釈迦が焼かれても、活気ある掛け声が絶えることない。敦賀、輪島、砺波、酒田……様々な湊の者が出入りし、北は現在のロシア沿海州や樺太のアイヌまでもが取引に混ざる。北の者なので真っ白の肌をしているかと思いきや、海運の民は黒い肌が多い。知らぬうちに海洋にて日焼けをしてしまう。商店の数は津軽家の鯵ヶ沢をしのぎ、連なる千軒ほどの小さい家屋が街道沿いに建てられ、行きかう人が途絶えることない。これは大きな陸奥湾(青森湾)で船が大きく荒らされることがないし、街道筋も三叉交わる物流の要なので物が売れるは売れる。

……だがさすがにそのような場所でも、落ち武者のような格好の者が現れたら、誰もが驚く。麻の着物がズタボロになって、泣く子供を連れてやってきたら、何があったのかと尋ねずにいられない。

大釈迦が燃やされた同日、旧暦七月五日の夕刻より油川にも避難民が着き始める。奥瀬はすでにこうなるだろうと予期していた。かねて浄満寺・円明寺(=明行寺)・法源寺の三寺に話をつけていた通り、伽藍庫裏の開放と食料提供がすぐに始まった。……荷車にて重い家財道具を引っ張ってきた男、痛い痛いと泣く子供、垢まみれで肌が汚いのだがそれさえも気づかずに杖を突きながら歩いてきた老婆。


その中に、自害した北畠顕忠の兵もいた。白い布で覆われた箱。中身の箱の素材まではわからないが、訊くと途中の王余魚沢で整えられたらしい。……油川城の一の郭に設けられた北畠仮殿に兵が参上した。顕忠の最後と浪岡の知る限りの話を顕氏と水谷に伝える。

9-7 子の運命

箱の中身は、顕忠の首。ヒノキで作られた箱からはほのかな優しい香りが流れ、死の匂いは意図的に消されている。二人の前で座している兵は、一つ一つ起きたことを語り始めた。……この者、次には他の旧浪岡北畠の仲間にも箱の中身を見せ、顛末を話すことになる。


水谷はたいそう驚いた。そして焦った。兵も噂で聞いただけであるが、水谷の拠点である水木館がいまだ降伏せずに包囲されていること。大釈迦館は放火されて灰と化したので、もしかしたら同じ運命を辿ることになるかもしれない。

降伏せぬことは浪岡北畠の忠臣として素晴らしいことではあるが……お前は己の立場をわかっているかと。館に籠る大将はおそらく水谷利顕。両管領の内の一家、水谷氏に幼くしてもらわれた若侍。……ここにいる水谷の養子である。抵抗し尽くすが最後、利顕は焼かれるか斬り殺されるか。わかっているのか、お前も浪岡北畠の血筋を受け継ぐ者ぞ。


私とて今さら為信に従うのは不服だ。……もとをただせば一年以上前は浪岡全体で為信に与することへ傾いていた。だがあの滝本の説得により取り込まれたが最後、北畠の血統は消されるだろうことを知る。かつて為信が大浦の男子二人を殺したように。沼田とやらの密書も付けて。だからこそ家中の論議をこれまで通り南部に従わせようと努力した。……それがこのざまだ。


……せめてお前は、敵方に浪岡北畠の血筋であることが知られていない。黙って従いさえすれば、為信の一家臣として長く命を保ち、次の世代へと繋げることができるというのに。機会があれば立てばよい。それとも……私が油川に居続ける限り、為信に従うことはできないか。

9-8 過去の因縁

水谷は隣の顕氏に話した。私は浪岡に戻ると。それはなりませぬと慌てて顕氏は止めに入るが、水谷は静かに首を振る。

「殿下……。思ってくださること、痛み入ります。しかしあなた様を支えるのは私でなくてもよい。他にも浪岡北畠の者らはこの油川にもおりますし、嫌になったらこの土地を離れてもよい。秋田にも繋がりはあるのですから。」

顕氏は水谷のこの話にどう応じればいいかわからず、ただただ戸惑うのみ。……すると、いまだ前にて座す顕忠の兵が口を開く。

「……亡き顕範様の御一家であり、特に殿下は赤沼家の血も入っておいでです。南部にとっては謀反人。かわいがられるはずがないですからな。」

かつて天文八年(1539)、南部晴政の時代のこと。赤沼備中という名の南部家臣が謀反を起こし、当時の三戸城(=聖寿寺館)を焼いた。その赤沼の妹は、あろうことか北畠顕忠の妻であった。妻といっても当時の年齢は顕忠とその妻共に幼く十くらい、父の顕範の進めた政略結婚であった。その二人の間に生まれたのが顕氏、後の北畠顕則となる男。

さらにいうと赤沼の謀反の原因は若気の至り同然なものだったそうで、奥瀬安芸という同じく二十歳ぐらいの同僚とのふとした喧嘩から、主君をも敵に回す大騒動へ発展した。喧嘩した相手は“奥瀬”。実は油川城主の奥瀬善九郎はこの奥瀬と血が繋がっている。……そう考えると、事態はさらに深刻である。

水谷は顕氏にいう。

「いずれは殿下も油川を離れることを考えた方が身のためです。」


顕氏は、苦笑することしかできない。

9-9 密行

水谷利実は浪岡へ戻り、本心ではないが為信に屈することを決意。ただしそれまで水木館が落とされないとの保証はないので、浪岡方面に向けて何通も書状を送ることにした。

“まずは利顕に向けて。屈しないことは素晴らしいが、御身を大切にせよと”


“次に三々目内の多田殿へ。彼は両管領として私と共に浪岡を支えた同士。利顕を説得してくれと書こう”


“敵方の兼平綱則殿。彼は一年以上交渉のために浪岡へ身を置いた。信頼はできるし、何かと心情は近かろう。なにとぞ便宜を図ってくれと”

……そして書いている内容が自らの養子の事ばかりだなと後になって気づいた。そんな自分に水谷は嫌気もさす。血は繋がらないこそすれ、幾らかは肉親としての情も芽生えたらしい。こともあろうに相手は川原御所の忘れ形見だぞ。なんとも恐れ多い……。だがそんな自分も好きだとも感じる。

さてと……あらためて筆を手に取った。

“石堂殿……。敵方にいると噂で聞く。……このままでは御所号の御子が危ない。少しでも為信が消すような素振りを見せたら……構わず助けよ。どんな手段でもいい。連れ出して、秋田へ逃げろ”

辺りは更け、背中側の山々はひたすら暗いだろう。だが目の前の小窓を開くと、いまだ消えぬ油川の灯。船員や外から来た商人らが呑みに歩いているのだろうか……油川の城中からも町の喧騒と輝かしい様がしっかり臨める。

ひとまず書き上げた書状を顕忠の兵に任せ、彼の去るのをそのまま一室で見送った。さらに水谷はまた書き始め、名前だけは抜いて数枚同じ内容を書き上げた。

……さて、誰に送ろうか。悩んでいるうちに、今までの疲れが体を一瞬にして覆いたて、……睡魔は水谷の気力を奪った。

目覚めたのは従者が呼びに来た丑の刻(午前二時)。これから密かに城を抜け出す。ふと横を振り向くと……書いている途中だった書状がなくなっている。書いていたのは”夢の中”であったか。

9-10 無念

待ち受けるは滝本重行とその家来たち。水谷を決して逃がしてはならぬぞと、油川城から通じる道すべてに仲間を置いた。すると……丑の刻に水谷が密かに城を抜け出した。南方に広がる川沿いの湿地帯から、長く伸びる葦に身を隠して逃げ去る気だ。

そうはさせぬ。お前が為信に下ろうとしているのはわかっておる。お前の記し途中の書状。もしやと思ったが……“息子を助けてくれ”と書かれ、“己は為信に下るから”と許しを乞うておる。素晴らしい親馬鹿だな。だが……為信に従うということは、南部氏に敵するということ。

決して許さぬ。

滝本は水谷の背後より近づく。家来たちは横や前からも水谷に迫る。……葦が長いので互いの姿は見えぬ。だがさすがに一点へ近づくと……水の散る音が聞こえる。服が葦に擦れる音、次第に激しくなる息。

水谷とその従者は、誰かに囲まれていることを悟った。無念、甚だ無念。だが諦めるわけにはいかぬ。……腰の鞘より長刀を抜いた。光る刀の先が大きく二つに割れている珍しい一物。日が高い頃、油川の市場で出会ったばかり。これならば少しぐらい生き延びる可能性はあるのではないか。そんな淡い期待……。

その瞬間、後ろより滝本が水谷をバッサリと斬りおとした。水谷の目前には走馬灯のようにこれまでのことが駆け巡る。……私とは何だったのか。何のために生まれてきたのか。こんな誰も歩かぬであろう所で沈むのか。黙っていれば泥へ身体が沈んでいくだろう。ああ、……生き残ってくれ。

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Author: かんから
本業は病院勤務の #臨床検査技師 。大学時代の研究室は #公衆衛生学 所属。傍らでサイトを趣味で運営、 #アオモリジョイン 。

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