【小説 津軽藩起始 浪岡編】最終章  水木御所成立 天正六年(1578)秋

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いざ立たん

10-1 由来

事は落着したか。いや、おさまらぬ拠点があった。


水谷氏の水木館はいまだ抵抗していたが、一応は浪岡北畠の両管領としての格があるので、五日ほど経ってもまだ包囲を続けていた。この水木の地は羽州街道(当時の今羽いまばね街道)の経路上にあり、北は油川より大釈迦・浪岡を通り、南へは藤崎などの為信領へとつながる。押えなければ領国運営において支障が出るので必ず従わせる必要がある。

攻める将は為信家臣の乳井建清で、籠る将は水谷利顕といった。何度も書くが……実はこの利顕、川原御所の忘れ形見である。その事実を知る者は北畠家中でも限られ、今では水木館の者と三々目内の多田秀綱ぐらいであろう。

……幾度となく説得をしようにも従う素振りを見せないので、津軽軍の中には滅ぼしてしまえとの声が高まっていた。だがそれは主に沼田祐光配下の者らで、他国者中心だった。彼らにしてみれば、一つの家がなくなることでそこを治める領主はいなくなる、慕う民も逃散する。そこを我らが代わりに入植し、迫る秋にもたらされる実りを横取りしようとの魂胆だった。……実際に、浪岡周辺においても他国者や土地を持たぬ貧民の入植が決定していた。為信が浪岡を退いた後、当面は辺りの事情に精通している兼平綱則に任せ、人のいなくなった家や土地を分配し、代わりに耕作する者を募る手はずだ。……兼平氏は当時でこそ兼平村(現、弘前市内)など津軽平野に進出を果たしているが、元をただせば西浜(日本海沿岸)、深浦町田野沢の出自。浪岡へ進出を果たしていた商家長谷川と共に、鰺ヶ沢などの西浜に住まう他国者らの貧民を引き入れるつもりだった。

乱れがおさまり浪岡の民が戻ったはいいものの、四割方はどこかへいってしまった。そこへ他国者などが代わりに入ることになるのだが……彼らは対外的に“兼平の者”“長谷川の者”と名乗った。平成の世で浪岡にこの二つの苗字が多いのは、この時の名残であろう。

10-2 理想と現実

……田畑が増えて、そこへ人が入ったわけではない。奪い取ったところへ人が入った。それではこれまでと違わぬ。為信は事を成した結果に唖然とした。……いや、己の領土になったということに意味がある。これで将来、岩木川の治水を行う際に何も隔たりがなくできる。“防風”と“治水”、自らが掲げる両輪が回り始める。この二つによって田畑は増え、在来の者と他国者の差はなくなり、誰もが安楽に暮らすことができる。


そのために、心を鬼にする。津軽は一つにまとまらなければならぬ。……亡き御所号の御子を、大浦城下へ移し賜う。そして御子の母親である安東の姫君。彼女が津軽家におりさえすれば、津軽と安東の盟約が絶えることはない。それに我らには浪岡の賊徒を退治したという名分がある。


“殿、兵を大浦城へ引き上げるのでございますか”

“うむ。浪岡はまずもっておさまるだろう”

“では、水木館はどうなさりますか”

“……数日待ってみてもいいだろうが、降伏せぬなら難癖付けて大釈迦同様にすればよい。……こちらは長らく待ったのだ。これ以上いらぬ”


旧暦七月八日。津軽為信は数多くの将兵を率いて大浦城へ引き上げた。浪岡には兼平綱則と兵八百を置き、後から大浦城より二百を送り、併せ千兵が防備にあたる。


御所号の御子は、追って吉町弥右衛門が銀館より移し賜う。彼は……亡き御所号を裏切った張本人である。

10-3 やり直し

御子とその母親は、籠に乗せられてゆっくりと進む。旧暦七月九日昼、折より空はぐつつき、小雨が吉町の一行に降り注ぎ始めた。……それは二十人くらいの行列で、田畑の広がる道を進む。いたるところに掲げられる白地に笹竜胆の旗ざし。進む者すべてが烏帽子をかぶり、あたかも公家のような出で立ち。輝かしく飾り立てられた腰の刀、頬には薄化粧。


吉町は籠の横で御子を守りながら歩く。……すでに浪岡北畠は滅び、この子の運命というものもおぼつかぬ。運良ければ生きながらえることもできようが、今は戦国の世だ。用済みとなれば毒を盛られるか川に沈められるか。……だが、すべてを見なかったことにする。これから起こることすべて。……そうしなければならぬ。私はこれから津軽家の忠臣として歩む。二度と裏切らぬ。あのような想いはいらない。

……すると向かう方に、なにやら物騒な集団が十名ほど。吉町にとって不穏な感じがしたが……旗ざしを見てみると、“錫杖の先”。白地に赤く描かれている模様で、津軽家の御印である。

近づくと……見知った顔であった。彼は列の先頭に出てきた吉町へ親しく話しかける。


「吉町殿、お役目ご苦労にございます。」

吉町も笑顔で返す。

「おお、石堂様……。これはどういうわけで。」


「様付けなどいらぬ。もう浪岡での上下関係は無意味なのだから。……このたびは吉町殿だけでは不足ということで、我らも合わせて大浦城まで警護いたすことになった。」

10-4 嫌味

「その旗は無意味だと思わぬか。」

石堂は吉町へ語りかけた。二人は共に御子の隣にて歩調を合わせながら進む。


「いやいや……これこそ浪岡北畠の御印ではありませぬか。」

「ほう……お前が言うか。」

吉町は言葉に詰まった。顔こそ笑みを保つが、心は一瞬にして冷え切る。


「吉町殿……。すでにあなたは浪岡北畠ではないのだから、早めに捨てなさった方がよい。」

……石堂の言葉の真意は何か。吉町は困惑するばかり。石堂は……話を一方的に続けた。

「ところで……蒔苗という奴を知っておろうな。」

「いや……初めて聞きましてございます。」

「知らぬはずはないだろう。お前の仲間ではないか。」

もちろん知ってはいるが……石堂の耳にも入っているのか。……答えづらいことを。石堂は構わず吉町を追い詰める。


「なんでも源常館の使用人であったそうではないか。……このたび名前にちなんで、蒔苗村を戴いたとか。なぜであろうの。」


……こやつ、答えを絶対に知っている。……裏切り者へのあてつけ。吉町としては、知らぬ存ぜぬで突き通すしかない。

10-5 決意

石堂は不敵な笑みを浮かべた。だがそれを吉町にとっては軽蔑のようにみえる。……仕方ない。私は大変なことをしでかしたのだ。浪岡北畠の旧臣からは……今後も同じようにネチネチとやられるだろう。覚悟しなければならない。


そして石堂、最後の問いを吉町へ吹っかける。

「せめて私はお前より浪岡北畠らしい存在だ。だがこうして笹竜胆ではなく “錫杖の先”を掲げる。津軽家の御印だ。なぜだと思う。」


さあ……と吉町は首をかしげることしかできない。顔こそ笑みを保とうとしたが、たいそう引きつっていたことだろう。石堂は“わからぬか”と相当残念な素振りをし、次には大きくため息をした。

”石堂頼久。水谷殿の遺志を継ぎ、亡き御所号の御子と母である安東の姫君を秋田へとお連れ遊ばす”


一斉に石堂の兵どもが吉町の行列へ襲いかかった。吉町はというと呆然として……立ち尽くすことしかできない。何が起きているのか把握できない。田畑の続く道中にて、敵は周りにいないはず……。石堂は大声を発てる。

「わかったか、吉町。錫杖の訳は、津軽領内より逃げるためだ。為信の兵に扮して、すぐに領内より抜ける。」


”私は、強く生きることにした”


次には石堂自らも抜刀し、吉町の首元へ刀の先を光らせた。吉町は……力を失いその場にへたりこむ。……さぞかし恐ろしかったようで、立派な装束で着飾っていたのだが……事もあろうに股間が次第に濡れていった。小便は地べたへと流れ出で、無様なことこの上ない。


石堂はそんな吉町を見て……斬るのをやめた。殺める価値もない。刀を鞘へと戻し……手下の者が御子と姫君を確保したので、長居はいらぬと早速立ち去った。


吉町弥右衛門はその後……津軽家中にいづらくなり、どこかしこへ逃散したという。

宿命

10-6 旧臣の交わり

多田氏の治める三々目内は津軽平野の最南端にして交通の要所である。北方より幾多にも分かれていた道が一本にまとまり、通り越して南へ向かえば道は二つに分かれ、左側(東)に反それれば南部領となった鹿野や花輪、右(西)ならば安東氏従属下の浅利領比内。なのでこの周辺には荒れた時代でも宿屋はたくさん存在したし、後に江戸時代になってからはちょうど分かれる手前に碇ケ関がおかれ、道行く人に怪しい者がいないか監視することとなる。


その日は夕刻より本降りになった。このような土地であるので、笠をかぶった旅人が屋根のあるところを探し求める。……その行為自体に不審なところはないのだが、事が事だけに津軽氏本拠の大浦城から来た番人らが街道沿いで目を光らせていた。三時間も過ぎればさすがに伝わるし、多田氏自体もかつて浪岡北畠の両管領の一家であったので、疑わしくも思われたのだろう。……一方で三々目内館主の多田秀綱は何もせず、これまで同様に関わらず、ひたすら引きこもるつもりでいた。

私は黙って遠方より浪岡北畠が滅びるのを眺めていただけ。一人では無力だし、私の想いは無下にされた。ただし他人への怒りではなく、己に不貞腐している惨めさ。


だが真夜中のこと……、館の裏門は放たれた。門番らは自ら仕える城主の心持ちを知っているので、わざと通してしまう。もちろん相手を見たことはあったし、決して不審な人物ではない。しかも尊ぶべきお方も連れているのだから。

逃げる石堂と、御子とその母である安東の姫、数人の同士である。……多田は彼らの姿を見たとき膠着した。何をしに来た……おのずとわからぬでもないのだが……関わりたくない。今もこれからも。油川にいる水谷殿からも手紙が届いてはいたが……これも無視していた。なすべきことは何もない。

石堂らの姿はびしょ濡れで、だが服の事よりも先に、それも館の者へ勝手に“馬を取り換えてくれ”と言い、元気な馬を準備させている。……相当無理をさせたらしい。

10-7 叱咤

「なあ……水谷殿が死んだぞ。」


“お前の起こすべき行動はわかっているな……今にも行かねば遅くなる”


“……何をせよと”


“いまさら答えるでもないだろう”

二人は雨が容赦なく当たる土の上に立ち、石堂は鋭い目で、多田は石堂の顔を見てはいるものの決して焦点を合わせない。


“……とにかく、水谷の死を無駄にするな”

これより先、必要な食料なども整えたうえで石堂らは秋田へ出立。山の道なき場所を辿り、為信の兵らの追っ手をかいくぐり、なんどか津軽の地を脱したという。


……石堂の親族はいまだ津軽の地にいたが、自分たちはこの件と無関係だと必死に主張。津軽家中では“石堂の家も潰してしまえ”との声も上がったが、それよりも多くの家来衆が“これ以上もめ事を起こすな”と押しとどめた。賊を入れて浪岡を落としたことは周知の事実だし、大釈迦館を焼いた非道もある。さらに何かやれば、民心にどのような影響を及ぼすか計り知れない……。ちょうど石堂の親族もこの辺りを察したようで、あろうことか“石堂”の苗字を捨てることで決着を見ようとした。……このような経緯があり、彼らは“石動”と苗字を改めた。読み自体は同じであるが、漢字が一つ違う。現在の感覚から言えばそれで本当に許されるのかと思うのだが、なんだかんだで認められたらしい。そして今日でも藤崎町常盤村(青森市浪岡町、女鹿沢にある石堂氏拠点であった増館のすぐ南方)にて命脈を保っている。ちなみに当地に“石堂”は一切存在しない。

10-8 代わり身

同じく旧暦七月九日の夕刻。浪岡にも事態の報告がなされ、大雨の中すぐさま兼平綱則は馬を走らせた。羽州街道(当時は今羽街道)を南西へ、水木みずき館を目指す。水木を囲むは乳井建清と兵五百。予定では最後通牒が終わり、いつ攻めんしてもおかしくない……何としても止めなくてはならない。それは亡き水谷の懇願だけではない、水木は津軽家の生き残る命綱に化すかもしれないのだ。
日中の事、吉町の一行は石堂の率いる集団に襲われて、あろうことか亡き御所号の御子と母である安東の姫が奪われた。……彼らがいることで津軽家の名分が証明されるし、悪い言い方をすれば安東氏より人質を戴いた格好になっていた。……石堂が南部安東どちらへ向かうかは知れぬが、もし安東へ駆け込まれたら秋田勢と津軽氏の盟約は断たれ、戦争が始まるかもしれない。

“為信はこれほどの非道を浪岡に対して行いました。私はこうして御子と姫君をお救いし、秋田へ参ったのです”

……想像がつく。

ではなぜ、水木が生命線となり得るのか。……多田はすでに忘れているかもしれない。あの時は相当追い詰められていた。人間は悪い記憶を都合よく消し去ることができる。……だが多田が兼平に話したことをなかったことにしていても、兼平はそんなにも大事なことを忘れるはずがない。


“水木館主の水谷利実の養子は、実は川原御所の忘れ形見”


永禄五年(1562)、十六年前。川原御所の北畠具信は当時の御所号に対し反乱を起こし、一族はことごとく滅せられた。その中で運よく生き残ったは具信の赤子。

“反乱の首謀者の子ではあるが、同じ北畠の血を継ぐ者。育てて浪岡の忠臣とすべし”

そして水谷の元へ預けられたのだ。

10-9 命綱

そして“期待通り”忠臣となった。だからこそ今なお抵抗を続けている。川原御所の忘れ形見、水谷利顕。十六歳の若き御子。浪岡北畠家中でも真相を知る者は稀で、兼平が思いつく人物は三々目内の多田秀綱のみ。しかもその息子の玄蕃にすらも伝えられていない極秘中の極秘。玄蕃と利顕は互いに親友というべき存在らしいが、利顕自身も明かさなかったのか、もしくは本人も知らないのか。

馬を勢いよくけしかけたので、一刻も経たぬうちに水木へ到着。乳井勢五百は松明を大いに焚き、大雨で消えさせることのないように油を大いに注ぎつつ、じっくりと水木館への包囲を続けている。“……間に合ったか”と兼平は安堵しつつ、急ぎ天幕下の乳井へ駆け寄った。


「なにも周りに敵はおらぬのですから、わざわざ夜に戦を仕掛ける道理はありませぬ。」


当たり前のことを当たり前のように言われた。乳井は不思議そうに兼平の顔を覗くが、兼平は乳井の表情お構いなしに、仔細を余すことなく伝えた。……利顕が北畠の血筋だということも。
そうであるならば話が違う。すでに殿にはお話になられましたかと乳井。いやまだだと兼平。急ぎ他の者に大浦城へ使いを送ってくれと頼み、床几(野外用の腰かけ)へと力を落として座した。これで何とかなった……だがこのまま抵抗を続けるならば、結局のところ同じである。

では誰に説得をやらせるか。最後通牒も断っているのだぞ……。思いつくはただ一人。三々目内の多田を引っ張り出すしかない。彼に津軽家の命運はかかっている。

10-10 幕引き

兼平は三々目内に使者を送った。もし断っても……強引に連れてくる。そして旧暦七月十日の朝。昨晩の大雨がまるで嘘のようで、どうも空は雨粒を出し切ったらしい。

多田秀綱と玄蕃の親子は、水木の陣に姿を表した。なんでも兼平の使いが着くころには出立の準備ができていたようで、己の意志で参上したらしい。

……わざと兼平は、利顕のことを話さなかった。……気変わりするといけないからだ。

さて、為信の兵五百が水木の館を囲む中、多田親子は誰も供をつけずに道を進んだ。……一応は水堀で囲まれているが、だからこそ水木館(=水城)と名がついたのだろうが、傍から見ればとても簡素なもので、攻められたらひとたまりもないだろう。田んぼの水路から水を引いたに過ぎない。

多田はため息をつく。隣を歩く玄蕃にとって、その意味は分からない。いつしか門の前へと着き……二人の顔は当然ながら館の者も知っているので、門は重々しくも二人のために開かれた。だがそれはもちろん為信の兵を引き入れる為ではないし、二人が為信に下れと説得したとしても従うつもりはなかった……初めは。

多田秀綱とその息子の玄蕃。神妙に首を下げ、守将の水谷利顕に面会。大広間すら持つような大層な城郭ではないので、粗雑な板間の、なにも飾りつけのされていない一室へと通された。……亡き水谷殿のお人柄が目に浮かぶ。こういう環境で育ったからこそ、このような立派なお人になられた。話し出す前に秀綱は涙を流し始めしまう。自覚のないままに。

対面する利顕はわざと怖い表情を浮かべ、終始崩さぬようにと決めていた。だが……多田の予想外のまを見て動揺し……、いつしか心配そうに見つめる、人として自然で正直な表情になっていた、なってしまった。ここで多田は訴えかけたのだ。


“御父上は亡くなった。義父上はお主に為信へ従ってほしいと語った。これは遺言となってしまった……”

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Author: かんから
本業は病院勤務の #臨床検査技師 。大学時代の研究室は #公衆衛生学 所属。傍らでサイトを趣味で運営、 #アオモリジョイン 。

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