【小説 津軽藩起始 浪岡編】第八章 大釈迦館炎上 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月五日

誘い 1-1 幕開け  梅は咲く。池の水面にその姿は冴え、淡い色は薄いながらも華やかにも見える。仙せん桃とう院いんは...

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大釈迦館炎上

8-1 正義の軍

天正六年(1578)、旧暦七月三日夕方。津軽為信率いる千の本隊は浪岡へ入る。

同日朝、巳の刻(午前十時)より少し前に総勢二千の兵が大浦城を出陣。そのうち本隊七百は直進せずに少し北側に逸れて進んだ。板柳を経由し、滝井館に入ったのは真昼の丑の刻。一時間ほど滞在し、在地の者らも合わせ兵数は千に膨れ上がった。そのまま街道を東へ向かい、あの賭け事好き吉町の拠点である銀館へ立ち寄る。ここで秘密裏に吉町が連れ出して保護していた御所号の御子と母である安東氏の姫の安全を確認。申の刻(午後四時)に再び出発し、周りの安全を確認しながら浪岡の目前へ至った。


……道中間際、物見がわざとらしくも物言いに戻ってくる。

“浪岡を荒らした賊徒ら。我らの侵攻に恐れおののき、戦わずして退散いたしました”


為信の隣にて馬に跨る滝井館の守将、これまで焦燥の気を露わにしていたが、その報告を聞いて少しだけ顔を和らげた。為信はというと……なんとも複雑ではあるが、鬼になると決めている。勝つための手段はこれしかなく、時機も今でしかない。


沼田祐光は滝井の守将の顔を見て、一人ほくそ笑む。悪いのはお前らだ。これまでいかに安楽な暮らしを送ってきただろうが、決断を誤った者らに未来はない。……せめてお前と、お前らの兵やその家族は殺されていない。それだけでも救いだろう。浪岡北畠の者らが悲惨な目にあった、もしくはこれからも遭うだろうという中、こうして我らに従ったことで生き残ることができたのだから。

こうして為信の本隊は浪岡に入った。他の隊はまだ到着しておらず、真ん中の羽州街道を進んだ乳井建清の軍勢五百は途中の水木館を包囲中、さらに浅瀬石の千徳政氏の軍勢五百が南方から侵攻。大浦兵との合流に時間がかかったため、少し遅れての浪岡入りとなった。

8-2 立場逆転

津軽為信は浪岡へ着いたのだが、すぐに御所の中へ立ち入ろうとはしなかった。なにしろ御所の中は乱れ切っている様で、死体の山をわざわざ夜に見に行く趣味はない。そういうことは配下の者らに任せ、自分はというと川原の御所跡に本陣を置いた。

……草がぼうぼうと生えてはいたが、死体を片付けるよりかは草を刈る方が早いし楽だ。もともと大きな屋敷があっただけあって土地は平らであるし、何よりもとことん踏み固められているような気がする。かつて南部代官の滝本重行が調練をする場として使っていたせいであろうか。

木柱を何百本と槌(=ハンマー)で立て、それぞれ一定の間隔で打ち据えていく。その柱一本一本に白い布地を纏わせ、薄い壁が何重にも設けられていく。……周りには松明を大いに焚かせ、今や浪岡で一番輝いているのはこの本陣だろう。対して浪岡の町屋はというと、灯り一つもつかぬ。本陣東の四日町、西の横目町共に人ひとり見えず、どこかへ逃げ去った後だろうか、それとも音ひとつ出さぬように気配を消しているだけだろうか。

しばらくして川原の本陣とは御所を挟んで反対側、源常館にいた兵ら五十ほど。為信に面会するために本陣へと参じた。元は館に二百いたのだろうが、別れた者らは“浪岡から戦わずして逃げてった不届き者”。実際は不届きでも何でもないのだが、名分を持った為信の兵らからすれば、そういう解釈になる。残った五十は実際のところ害が及ばぬようにひたすら源常館より出なかっただけなのだが、“浪岡の一拠点を賊徒から守り抜いた名誉ある兵ら”という解釈になる。

“それ”とは別に一つ余計なことをいうならば、真相を知っている者もこの中に若干名いる。

8-3 知らざる者

さて、その五十名に石堂頼久という武者がいた。生き残った者の中でも格が高く、浪岡北畠においては両管領の多田と水谷の次に偉い。彼も水谷らと共に油川へ行くつもりであったが、急に自分の奥方が亡くなったため浪岡に留まっていた。

川原の本陣にて石堂は為信に問う。


「御所号は果たして何処へ。」


「いま探させてはいるが……御所の中には見当たらぬそうだ。ならば生きているのではないか。」


為信は石堂らに対し、いらぬ期待を持たせてしまう。悪意はないのだが、悪い気がしてならない。


「……ほら、山々には逃げ隠れている民が大勢おる。あの中にいるやもしれぬ。明日にはお主らに手引きをしてもらう故、今夜は体を休めて待つが良い。」


石堂ら浪岡北畠の者は落胆し、かといって為信に問い詰めても何も進まぬ。その中で真相を知っている者も、もしや生き延びているのではと考えてしまう。……己が悪者になりたくないだけだ。


為信の横に座る沼田祐光。次いで石堂らに語りだす。淡々と落ち着いて、それも諭すように。


「吉町殿の銀館には二歳になる御子と母である安東の姫君がいらっしゃいます。……あまりいいたくはありませぬが、もしものことがあっても……御子さえいれば、北畠のお家は成り立ちます。あなた方も懸命に盛り立てていけばよろし。」


ここで“もしものこと”と言ったが、“もしも”はすでに起きている。……石堂らが哀しく引き下がった後、為信は賊とされた者らから報告を受ける。

8-4 鬼畜

「そらあ見つからぬわけですよ。あのボンボンは“賊”として死んだのですから。」

野郎どもは大いに笑いこけた。沼田が“あまり大声を出すな”と注意するも、なお止まらぬ。


「きっとあなたさんの兵たちは、“御所号”という身なりを浮かべて探してなさる。」


“身なり”とは……為信はもちろんのこと、その場にいる兼平や森岡ら為信の家来衆もどういうことかと聞き返した。


「そんなにも気になりますか……。いいでしょう。ご丁寧に申し上げます。」


御所号といえば……紫の衣ですかな、それも絹の。ほかの色かもしれませぬが、とにかく深くてかつ鮮やかな色合い。しかしあのボンボンは麻の汚らしい、さらには継ぎはぎがされた衣を着て倒れているはず。皆々、身なりでしか人を判断しておらんのです。


……この話を聞いて、そういうものかと考えさせられた。津軽為信という人物とて、汚らしい恰好で歩いていれば、見向きもされないかもしれない。

「そこで、俺らは試したのです。ボンボンを試しに解き放ち、生き残ることができるかどうか。」

……それでどうなった。


「我らの仲間だと勘違いした御所の兵らに、いとも簡単に斬り殺されておいででした。」


それでも北畠顕村という人物が家来衆の信頼を集めているお方なら、こうはならなかったはず。見た目ではなく、その雰囲気でわかりますからな。

8-5 次なる狙い

夜が明けた。悲惨な一日は過ぎ、新たなる一日が始まる。かといって気を取り直して……とも行くはずはなく、あるべき形に戻ることは決してありえない。

さっそく為信は旧浪岡北畠の残留組に命じて、塚森山など浪岡を囲む山々へ民百姓の連れ戻しをさせた。見知っている者らが姿を現したので民百姓は安心したようで、次第に浪岡の町屋にも人が戻ってくる。ただしその中にかつての御所号である北畠顕村の姿があるはずなく、淡い期待を抱く者は打ちひしがれただろう。

為信としても顕村の亡骸を探させたが、結局のところよくわからなかった。身分不相応の格好をしていることもあるが、死んだということは野郎どもの証言で確かなので、そこまで熱を入れて探さなかったのもある。


……御所の一角である検校館を打ち壊して、大きな穴を掘る。そこへ格の低そうな身恰好の死体を放り込む。浪岡八幡宮の敷地にも穴を掘り、そこへは御所の兵など格の高そうな者らを埋葬した。急ぎ近くより曹洞宗の僧を呼び、略式ではあるが葬儀を執り行った。……喪主は津軽為信である。これは新たなる支配者誕生を宣言したのと同じ。


同日、浪岡御所より北方5㎞。大釈迦館という旧浪岡北畠の砦があるのだが、そこへも浪岡より逃げ去った兵や民百姓が数多く避難していた。歩きでも一時間ほどで着く近さであるし、なんといっても南部氏の油川城へいく途中経路である。浪岡に何かあれば油川の奥瀬氏が動く約束であったので、大釈迦へ逃げ込むのは至極当然の判断であったともいえる。


逆に言うならば、そんなにも近距離に南部氏に利用されかねない拠点が存在している。だまっていれば油川勢が鶴ヶ坂の峠を越えて軍勢を入れてくるだろう。

あろうことか

8-6 嫌悪

一通り葬儀を終えた頃、物見が慌てて川原の本陣へ駆け込んできた。

“賊徒らは大釈迦館へ逃げ込んだ模様”

ならば大釈迦へ兵を送らねばならぬと為信、前で座す家来衆の顔を一つ一つ覗く。旧浪岡北畠の者、石堂などでは話にならぬ。ここは……父親とは違うところを見てみたい。

「森岡信元、お前が大釈迦へ向かえ。」

……いやな役目だ。名分があるのはこちらだとしても、仕掛けたのもこちらだ。それだけでも根っからの津軽武士には耐えがたい。……かといって断る理由もなく、従うほかあるまい。

「わかりました。早速大釈迦へ向かいます。」


「うむ。板垣将兼も連れて行け。お前とあいつは仲がいいだろう。」


仲がいいのは確かだが……元々は父親が結びつけたようなものだ。その父はすでになく、たんなる相談相手として今がある。まさか松源寺の件が知られていまいか……。そこまでは考えすぎか。

ここでまさかの石堂が話に入る。突如として前へ進み出て、頭を地べたへとつけながら。


「私めも同行したいと存じます。浪岡北畠の者が加わっておらぬと、……大変申し上げにくいことですが、信に欠ける。それに大釈迦の者らは賊が紛れ込んでいることにまだ気づいていないだけかもしれない。私が身をかけて説得いたします。なにとぞお願い申し上げます。」

断る謂れはないが。しかし……お前があがいたところで、何も変わらぬのだよ。攻め滅ぼすことはすでに決まっている。なんとも滑稽なことか。

8-7 蹂躙前夜

森岡と板垣ら併せ五百の兵は同日夕刻に突如として大釈迦館を包囲。館主の奥寺氏へ向けて警告文を発した。

“こちらに賊徒らが逃げ込んだと聞いた。賊を守る気ならば即刻討ち果たす”


最初から喧嘩腰である。交渉する気はさらさらない。石堂も軍勢の中に混じってはいたものの、彼の関わらぬ形で文の行き来が始まった。


館主の奥寺はこの一方的な書状に激怒した。事が起きてしばらく経ち、あらましはすでに明らかだ。おそらくは賊は為信と関わりがある。その後の為信の動きを見れば、大体の推測はつく。なので賊が我らと関わっていることはもちろん、逃げ込んでくるなど全くもってありえない。度を越した”いちゃもん”である。
南部氏の油川城へ向けてはすでに救援を頼んであったし、とてもじゃないが為信に従う気などさらさらない。

日は暮れて、戌の刻(夜八時)。大釈迦の者にも知れている顔が為信方の使者として大釈迦館を訪れた。……奥寺は彼ならばと館の中へ通し入れた。

かといって、奥寺の怒りはおさまらぬ。石堂が自室の襖を開けた瞬間、いまだ座らぬ暇で強い言葉を投げかける。

「なぜお前は為信に従っているのだ。」


石堂は戸惑ってしまった。立ったままその場で固まってしまう。奥寺の険しい面構えを見るとなおさらだ。身体がこわばる。石堂は……何も言えぬ。

8-8 後を託す

「従うなど……考えなどござらぬ。」

石堂はなんとか応えをひねり出したが、奥寺はおさまらぬ。拳を硬くし、今にも殴りかからんとする勢いだが……それでも同じ浪岡北畠の者。なんとか怒りを寸のことろで止め、手一つで座るように促した。

石堂はその素振りをはじめ理解できなかったが、ござの方へ手を動かしているので座れということかとわかった。恐る恐るござに座り、……奥寺の顔を窺う。


「ふん。その様子を見ると……お前は為信と通じていなかったのだな。」

「……それは、いかなる意味で。」

「そらあそうだろ。あそこまで華麗に落としきったのだ。家来衆の中で手引きがあったものと見受けられる。」

石堂は何も言えぬ。目の前のことに精いっぱいで、周りを俯瞰的に見ることをなおざりにしてきた。……だが石堂にも言いたいことがある。奥寺殿、自分の置かれた立場をご存知か。


奥寺は一つため息をつく。そして石堂へ言った。

「それでもの……あちら方にお前も、多田もおる。逃げ込んできた者から聞いたが……御所号の御子も生きているらしいではないか。この二人がいれば、やすやすと為信は御子に手を出せまいて。」


わざとらしく笑い声を出す。石堂には……何か悲惨なものを含んでいるようにも聞こえた。

8-9 悪行

一晩明け、旧暦七月五日朝。森岡信元ら率いる津軽軍は包囲する大釈迦館に対し最後通牒を行った。夜通し文が行きかう中で、大釈迦が助かる折衝点はあった。賊など知らぬと館主の奥寺はひたすら突っぱねていたが、ならばといったん門をあけ放ち、逃げ込んだ者をこちらで調べるがよいかと森岡は提案をした。だが奥寺は拒絶する。“為信の兵らは疑わし限り、私は大釈迦館にいる者全てを信じている”


“籠る民草ともども滅ぼす気概があるのなら、堂々と攻め込んで来ればよろし。悪行は何代も先まで語り継がれることだろう“

森岡や、付き従っている板垣にしても気持ちのいいものではない。かといってこれ以上の時間は待てない。油川からの援軍が現れぬうちに片づけなければならぬ。

……大釈迦という拠点が使い物にならぬようになっても構わぬと、内々に沼田祐光より話を受けている。それも油川が二度とこちら側に関わることができぬように。……これが他国者のやり方よ。好きではない。かつての大浦家はすでになく、いまや他国者の操る津軽家だ。


“さあ油川へ、山を越えた先へ。黒き狼煙を見せようではないか”

辰巳の刻(午前九時ほど)、津軽軍は大釈迦館に向けて一斉に火矢を放った。民百姓ともども焼き殺すなど津軽の地において前例がなく、その悪行はさらに誇張され、現在において“浪岡御所を焼いた”として伝わっている。ただし近年の発掘調査によれば御所が焼かれたとは認められなかった。今作においては以上のような顛末だろうかと想像して書きはしたが、実際のところ不明である。


ただし山を越えた向こう……油川から見れば、大釈迦と浪岡は同じような場所である。

8-10 ごんぼほり

石堂は勢いよく燃える大釈迦館を見て、まともに立っていられない。足元はふらつき、仕方なくその場にしゃがみこむ。大釈迦館を囲む軍勢より前へ出いでて、ただただ燃えるのを眺めることしかできない。


……館より逃げる者は容赦なく殺され、選択肢としてあるのは焼かれるか斬られるかのどちらかのみである。

己の無力さ。己の不甲斐なさ。心底嫌になる。かといって、話を聞こうとしなかった奥寺も馬鹿だ。大馬鹿者だ。なぜ死ぬことを選ぶのだ。

……近くまで森岡と板垣が検分のために歩いてきたが、偶然にも石堂の姿を見つけてしまった。話しかけようとしたが、……なぜか後姿にものすごい何かが感じられ、言葉を発するのは躊躇われた。その間も大釈迦館は燃え続ける。

油川の援軍はついに現れず、これは津軽南部両軍の直接対決を避ける意味合いなのだろうか。準備が整っていないといっても、半日も経てば攻め込めるだけの兵は揃うし、なんといっても油川には浪岡北畠の管領である水谷利実や一門の北畠顕氏もいるので名分は立つ。戦おうと思えば戦えたはずだ。


その日は大いに乾いている青天の日であったので、火はメラメラと燃えあがった。囲む兵らには館は遠いので悲鳴が聞こえることはない。だが十分に想像はつく。……黒い煙はひたすら空へ上りゆき、きっと山向こうの油川にも見えていることだろう。

悲劇。少しでも奥寺に柔らかい考えがあったのなら、こうはならなかった。ならば奥寺がいけないのか。……決してそういうわけではない。

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