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旧拠 大光寺へ
6-1 狂い
安東軍の先遣隊千五百は蔵舘を落ち着かせたのち、旧暦七月一日に宿河原へと着陣。六月二五日に大館扇田城より出発して以降、七日間で40㎞を進んだことになる。津軽側が最初から全力で守ってきたならば、そんなに早く進むことはできなかったであろう。
北北西には石川城、その奥には堀越城、そして大浦城へと続く。いよいよ津軽平野へと突入し、津軽家の中枢を襲うのだ。さてそのうち滝本隊三百は様子見をするため北へ兵をすすめ、石川城と宿河原の中間地点にある森山の松伝寺を攻撃した。津軽方の兵士こそ籠っていたが、僧侶らを連れてあっという間に逃げ去ってしまう。
“なにか感触が怪しい” 滝本はこう感じた。こちらこちらとおびき寄せているのだろうか。そうでなくても初めの津刈砦でも守り手の勢いは鈍かった。……為信は、津軽平野での決戦を望んでいるのか。それもよかろう。ただし我らはあくまで安東愛季様の添えの兵ら。本軍が到着すれば石川・堀越・大浦……この津軽家の中枢というべき城を落としていただき、華を持たす。己の属する比山殿を大将とする千五百は……大光寺を目指そう。あとは出立する刻だけだ。あいにく安東本軍はまだ姿を現さない……遅い、遅すぎるぞ。我らは早くも大鰐まで制覇してしまったぞ。何をしている……。
さて滝本は一旦森山を離れ、宿河原へと戻った。そこには比山や浅利らが苦虫を潰したような顔をして腕を混んでいる。滝本は訝しそうに、何があったかと問うてみると……。
「安東様の軍は大館にこそお入りになられたが、酒田の大宝寺義氏の動きが怪しいらしく、確かめ次第こちらと向かうと。」
「大宝寺には織田の威光が届かないのか。織田は周辺諸氏に対して、このたびの戦の邪魔立てはするなと触れ回ったではないか。」
「いや……かの家は上杉に従っておるので、織田うんちゃらはまったく関係ない。」
6-2 既定路線
滝本は地図の広げてある机をたたき、周りの諸将へ物申す。
「それでも安東様がやってくるのは変わりなかろう。」
大将の比山は滝本の剣幕に戸惑いながらも、“そうだな”と相槌をうった。滝本は続ける。
「我らは大鰐まで制した。羽黒館の将兵は逃げ、三々目内館の多田とは繋がっている。加えて津軽家中にも裏切る約束の者らもおる。安東本軍がやってこないからといって、攻めない理由にはならんぞ。」
場の空気は滝本一色になりかけた。いやいや、なってはならぬと慌てて目付役の浅利が口を挟む。
「しかし我らが総出で攻めあがったとしても、帰り道を塞がれては兵糧が届かなくなるぞ。」
なんだとと滝本は浅利を睨み、強い押しで言い放つ。
「そんなもの、まだ未だに戦っていない北畠殿に守ってもらえばよい。ここ宿河原にて居座れば、道が断たれることはなかろうて。そうであろう、北畠殿。」
北畠顕則は滝本の真ん前にて座っていたが、まともに口答えができず、目を合わせないように下に俯こうとする。ここで浅利が擁護する。
「その言い草はないだろう。北畠殿は多田をこちらにつかせた立役者。無駄な血を流さずしてほぼ大鰐地域を下したのだから。」
「戦ってこそ武士の本懐。なるほど、裏でコソコソやるのも私もやるだろう手だし立派な策謀だ。だがそれだけに頼って刀を持つことを忘れたから、浪岡北畠の凋落があった。それとも……次の戦は先陣を切るか。」
北畠家臣の石堂は恐る恐る顕則の顔を窺うが、体が少しだけ小刻みに、次第に揺れが大きくなり……彼には似合わないがたいそう甲高い声で言い返した。
「わかった。次の戦では先陣を切らせていただく。それでよいであろう、滝本殿。」
6-3 落としてこそ
津軽家の三家老というと兼平綱則、森岡信元、そして小笠原信浄である。ただしこの六羽川合戦発生当時は兼平と森岡は家老と名乗るには若すぎ、代わりに乳井建清と小笠原とで津軽の二柱と呼ばれた。その乳井氏の拠点として大館山の西麓に乳井福王寺があり、信仰の拠点ながらこの時代でいうところの本願寺や比叡山延暦寺と同じように武装した僧兵らの屯するところでもあった。津軽為信の決起より乳井氏は彼に従い続け、岩木山信仰の中心を任されてきた。そして岩木山地域とは別に津軽平野の東端である乳井福王寺を中心としても勢力を張る。
……この福王寺であるが、西側に六羽川が流れ、川を北へ辿れば大光寺城へと着くことができる。大光寺城は滝本の主君であった大光寺氏の拠点であるし、彼の属する安東軍が攻略すべき拠点のひとつである。大光寺城を目指すならば、ここ福王寺を落とさなければならぬ。ただしそちらへと進めば津軽方の拠点である石川城を無視する形になり、横やりを受ける羽目になりかねない。そこで抑えの兵を宿川原ならびに森山松伝寺に百ずつ置くことにより南方より睨みを利かせる。加えて安東愛季率いる本軍が到着すれば石川城、堀越城、そして大浦城へと攻めあがる手筈なので、特に恐れる必要もない。
とは申せ安東本軍の到着が遅れるとの知らせを受けている。この状況で攻めあがるのは危険ではないかと安東方の諸将は危うんだが、滝本は“留まっていては我らの勢いを失う”と主張し、無理やり今ある兵ほぼ全てを以て福王寺への侵攻を開始した。めざすは大光寺城、かつて住んでいた思い入れある処。安東本軍に華を持たせるため、我らは石川や堀越には攻め入らぬ……。
旧暦七月二日昼、安東軍は福王寺の南隣にある乳井茶臼館へ攻撃開始。福王寺は北と南の隣に武装化された砦をもち、全長1㎞にも及ぶ巨大な山城ともいえる。しかも丘陵の高台にあるので攻略するのは至難の業。ただしそこを制覇しさえすれば津軽平野が一望でき、為信の軍がどのように動こうとしているか全て丸見えになる。
6-4 老いぼれを、殺す。
滝本に手柄を取られてなるものかと、北畠勢は必死に攻めたてた。何重にもある帯曲輪より放たれる何百何千もの矢を避けつつ、死角を見つけては身を隠し上を目指す。晴れ渡る空の元で辺りは荒々しい声に包まれ、鳥は慌てて逃げ去った。……今とは違って木が多く生えているわけではないがその陰だったり、ところどころに激しい勾配の崖に近い急斜面があるので危うくなったらそこへ身を移し、逆にそこから矢を放って敵兵を狙うのだ。
このように北畠勢は武門らしく戦いを挑んだ。これ以上滝本に手柄を取られてしまうと津軽平定後の主導権は奴へ移ってしまうし、なにより滝本の行いは民のためにならぬので我らが先頭に立って治めねばならぬ。顕則も、石堂も必死に上を目指して駆け上がった。それでも北畠勢五百と守勢四百が争うのでなかなか難しいかと思いきや、案外北畠勢は強かった。一応は滝本の調練を受けたことのある身の上であるし、津軽に戻りたいという想いは誰にもかなうまい。
続けて横手南方より山伝いに滝本隊三百が突入し、他諸隊も総出で攻め入ったので、いくら帯曲輪を何重にも持とうが、高いところから兵の動きが見えようが、特に問題でない。いざ近づいて刀や槍を突きつけると、いとも簡単に敵兵は倒されていく。弱い弱い、弱すぎるぞと安東方の者らは感じたので、試しに御顔を拝見すると……くたびれた老人ばかり。道理で手ごたえを感じなかったと滝本は思い、その横で顕則は静かに手を合わせた。
……津軽方は兵が足りず、このような者らまで駆り出されている。大方若い者らは石川や堀越へ詰めているのだろうが……。それになんだ、まともに鎧さえ用意できなかったようで、決して鮮やかでない色の麻布を何重にも体に巻くことで鎧代わりにしている。結局は矢も刺されば刀でも斬られるのだが……数合わせで駆り出された者の悲惨さ。重々身に染みる。
こうして茶臼館を落とした安東軍は、続けて乳井福王寺へと攻めかかった。
6-5
僧兵は白色の袈裟の上に鎧を身に着け、弓や槍やらを持って安東軍へ立ち向かう。彼らはたいそう屈強な者ばかりで、当時は神仏習合の世の中だったのでその馬鹿でかい鳥居の上に登っては射かけ、下にいる者ならば石段の元で大股を開いて通さまいと激しく抵抗する。
しかし安東軍は勢いを持ち、いくら少数で抗おうにも多数には勝てなかった。至る所で隠れては襲い、逃げては死角からの矢で敵を倒す。ただしこれは敵兵にとっても予想内のやり方である。
この乳井福王寺という場所は……山地の至る所をご丁寧に平らにし、そこに幾つかの寺社仏閣が建てられている。その様子はあたかも大和国の信貴山を思い浮かばれる。高いところにそのような建造物は四つもあり、下ったところには坊主らが住まう庫裏が周りを囲むように建てられている。それら全て、一刻も経たぬうちに安東軍の手に落ちた。安東の扇の旗さしが山々に数多く掲げられ、津軽の錫杖の旗や卍の旗は虐げられていく。いとも呆気ない。
実のところ、ここの主である乳井建清は不在で、かつて逃げていたことのある出羽国羽黒山より急ぎ戻ってくる途中であった。この訪問により安東本軍が津軽の地へとやって来れなかったきっかけが作られたのだが、さすがに乳井自身も己がいない間に寺が落とされるなどと思ってもいない。やはり指揮する者がいないと本来の力は出ないのか。それでも乳井が戻ってくるのを待ち望んで、なんとか寺を守り続けようと僧兵らは体を張る。元々白色だった袈裟が薄汚れた感じに変わろうが、暴れすぎて鎧のひもが緩み使い物にならなくなり、それでも気にすることなく体に矢を何百本と受けようが、鏃の鉄の部分が心の臓に突き刺さろうが守り切らねばならぬ。そこには弁慶が何人もいる。弁慶は義経を守るためお堂の前で立ったまま死に果てたというが、所詮弁慶は妖怪ではないし、不死身でもない。人間でしかなかった。人が血を流せば、後は死に絶えるだけ。そんな者らが境内に何人転がっただろうか。
遠謀
6-6 生き残るべく
安東軍はついに津軽平野へと躍り出た。勢いは衰えることを知らず、彼らに協力すべく制せられた場所の土民らも加わり始めて二千もの兵力になる……。一方でこちらはどうだ。人が足りず、一線を退いた年寄りなども呼んで、兵に仕立てている。ただただ申し訳なく、夜になるたびにひたすら経を諳んじるほかあるまい。
しかしこれだけは約束する。津軽が生き残るために、最大限努力しよう。決してその死を無駄にはしない。
下の者らは“勝つ見込みなく、闇雲に抗っているだけだ”と思っているだろうし、そしてそれに賛同してしまう津軽衆の精神。無意味に突っぱね、従えば助かるのに今更何を申すかと意見を聞き入れぬ頑固者を“じょっぱり”というし、津軽衆はそれを自認する。特に津軽家の家臣団はこれまで必死に戦ってきた。その中で勝ち得た物を、何もその有様を知らぬ者らに、労を要することなく奪われたくはない。こうして和平は突っぱねられた。己も裏工作したものの、どうも長く津軽に住まううちに染まったようで、ついには戦さになる道を選んでしまった。理性では十分にわかる。だが感情はそれを押しのけた。激情が蠢き、どのような結末に至ろうが突き進みのみ……。
すでに大館山山麓の乳井福王寺は落ち、敵軍は六羽川を辿って北へ、それも津軽軍本営であるこの堀越を無視して……。舐めている。奴らは舐めかかっている。……いやいや、まだ奴らは知らぬだけなのだから仕方ない。これも己の策謀なのだから……。
堀越城に集結する千ほどの兵ら。この館の木窓から下で屯している様が一望できる。
うすら笑み。場違いな表情をしてみる。心は安定しない。でも為信は諦めていなかった。他の将兵らは……諦めているだろう。あとは”じょっぱり”だけで戦うだけ。至る所が悲惨な最期でも……。
しかし為信は津軽に染まったとはいえ、まだすべてが染まり切ったわけではなかった。できる限りの理性を保ち、生き残るための適切な手を講じていたのだ。
6-7 勝機
旧暦七月四日。小雨がちの日であったという。いよいよ安東軍は堀越の東側に広がる大館山を抑え、北へコマを進めた。二手に分かれ、沖舘へは大将の比山ならびに浅利と滝本、の千二百。高畑館へは北畠勢五百が進撃。大鰐の土民らも併せて兵数が膨れあっており、勢いは完全に安東方にあった。
津軽軍本営の置かれている堀越城の為信。諸将らにすぐにでも援軍を出すべきだと訴えられるが、断固として動かない。しかしこのままでは城や砦が次々と落とされていくのみ……。カッとなりやすい者らはいきり立ち、今にでも勝手に援けに行こうと立ち上がろうとするも、周りの者に何とかこらえよと再び座らされるのだ。
確かにこのまま知らせが来ぬままでは……と為信も思い、それではと明日の朝を持っての出撃を森岡や板垣に命じた。こうなると武者震いする者、変に声を張り上げて気を絶たせる者、むやみやたらに刀を振り回して威勢をあげる者など各々が出陣するにあたりそれぞれの方法で気持ちを整え始める。
そのような最中、待ち望むべく人が帰ってきた。乳井建清、津軽家臣にして乳井福王寺の住職である。僧兵を率いるリーダーとして大活躍するのだが、あまり裏の働きは知られていない。
「ただいま出羽国羽黒山より戻りましてございます。」
大広間にて甲冑を身に着けた家臣団に囲まれたまま、上座の為信に向けて事の次第を伝える。
「安東愛季、元々は自ら津軽へ攻め入る由でございましたが、この度はやって参りません。」
それは真かと諸将らは思わず立ってしまう。来る先は死しか無いものと諦めていたが……もしや勝てるのではないかと一筋の光明が差し始めた。誰もが表情を明るくさせ、期待の目で乳井を見つめる。
6-8 犠牲を呑み込んで
「私は羽黒山と接触を持ち、酒田の大宝寺氏は羽黒山の別当でも在らせられるので……しかも安東氏と敵対している。申しつけ通り、大宝寺氏をけしかけましてございます。」
あのあたりの事情は大変錯綜している。従来大宝寺氏は上杉に従属していたが状況が変わってきた。前年の天正六年(1578)に御館の乱が発生し、これは上杉謙信が急死したことにより起きた家督争いである。これにより大宝寺氏は上杉の支援を得ることができなくなったが、逆に言えば近くにあったはずの強大な権力が辺りを監視している余裕がなくなった。大宝寺氏の勢力拡大のチャンスである。そんな中で北に位置する安東氏が津軽を取り込んで大勢力化してしまうことはいただけない。ここで津軽氏と大宝寺氏の利害が一致したのだ。安東の戦いに手出しするなと織田の御触書があったものの……建前はいまだ上杉の配下なので関係ない。大宝寺氏は……威圧のため北へ兵を送る。
乳井は……津軽より逃げた際に羽黒山に長く住んだことがある。その縁が今生きた形となった。
「これで安東本軍の千五百は津軽へ入らない……いずれ大館扇田城から引き揚げることでしょう。それを知らないままであの滝本がいる先遣隊は津軽平野の奥地へとどんどん攻めかかっております。後ろから本軍がやってこない以上……袋の鼠。」
周りを囲む諸将は“勝てるぞ、勝てるぞ”と連呼し、各々立ち上がったまま互いに拳をつきあったり抱きしめあったりと嬉しさを体で表した。しかしそんな中でも冷静なのが数人いる。沼田は黙って胡坐をかいたまま目をつむって立ち上がろうとしないし、八木橋は……恐る恐る乳井に問うた。
「それで……乳井殿はすでに知っているのですか。」
すると乳井はゆっくりと深くうなずいて、……男ながら一筋の涙を流した。己がいない間に主のいない寺は落とされた。福王寺の仲間らは無残に殺された。決して忘れることなどできぬ。おおっぴらにこそしないが、小刻みに体が震えており、必死に心の内を抑えているようである。
6-9 違う視点
誰かが“袋の鼠”と申せども、敵軍の方が兵数で上回り、かつ勢いもある。安東軍はいまや大鰐あたりの土民も併せ二千近く。対してこちらが自由に動かせる兵は千ほど。水木御所を併せても千五百なので、非常に心もとない。しかも三々目内館の多田秀綱は果たして降伏してしまったのか否か。動きが全くもって見えぬ。
為信は悩む。肝心なのは用兵であり、そこをしくじればすべて水泡に帰す。ひとまずは……
「森岡。お前は五百で森山松伝寺を奪還し、安東軍の退路を塞げ。余裕があれば宿河原に進み、平川と六羽川の要所を抑えろ。」
森岡は威勢よく返事し、甲冑の音を鳴らしながらその場を去った。次に……
「乳井。お主は大光寺城へ向かい、攻めたててくるだろう安東軍を迎え撃て。これぞ復讐の致すところだ。」
乳井はというと……“御意”と大きく返したものの、心の中でいろいろと渦巻いているようだ。なぜならば迎え撃つだけでなく、今すぐにでも福王寺を取り戻したい……それに攻めたてられている沖館や高畑も自らの所領でもある。
横でそれを至極冷静な目で見ていたのは沼田祐光。実はこの戦に関してある疑いを持っていたので……ここで恭しく前へ進み出て、為信に対して献策する。
「殿……迎え撃つだけでは敵軍の勢いをそぐことはできません。出口をふさぐのも結構。しかし他の手も加えると……さらに良策。」
為信は沼田の目を見て……何か裏がありそうな感じを受ける。周りの諸将が血気にはやる中、落ち着いて入れる数少ない一人である。……そういえば、こやつも純粋な津軽衆ではなかった。
「沖館には乳井殿が大光寺城へおつき遊ばしたらさっそく援けに向かって頂く。高畑へは、北畠には北畠を。水木の軍勢に当たらせましょう。
6-10 星に願いを込め
明けて旧暦七月五日。空の加減はよろしくなく、雨が降ったりやんだりを繰り返している。雲の色は白いので大荒れになりそうではないが、あまり気分のよろしくない頃合いである。
大光寺城についた乳井建清は周辺の兵らも併せ五百を率いて沖館へ救援に向かう。同じくして水木御所の水木利顕ら五百の兵も高畠へと向かう手筈である。森岡信元率いる五百は石川城南方の森山松伝寺を攻めたて、続いて宿河原の安東軍の拠点を奪う。きっと安東軍は我らより大軍といえど、動揺して後に下がろうとするに違いない……。敵軍の勢いが削がれてから初めて、津軽為信の本軍は出陣する。それが明日になるか、明後日になるか。どちらにせよ近いうちなのは確かだ。
森岡隊が威勢よく堀越を出陣する。城門は重々しく開け放たれ、残る津軽家臣団は彼らを見送った。先頭を進む騎馬武者十人ほどと、後をぞろぞろと進む大勢の足軽ら、明るい声を高々と掛け合い、漂う空気などなんのその、町屋の砂利道を越えれば田んぼが周りに広がる畦道へ。稲は生き生きとしているだろうが、晴れていないので決して冴えはしない。
さて、為信の横で兵らを見送るのは弟の久慈為清であった。南部領内から強行突破して兄である為信を助けにやってきたものの、いまだ役目が与えられていない。そこで周りの声が掛け声でうるさい最中ではあったが、為信の耳元で問う。
「私と久慈の兵らは、兄上の本陣にての備えでしょうか。」
為信は即答せず……何とも聞こえずらい声をだした。言葉にもなっていない。それからしばらく為清が何も言わずに待っていると、為信はたいそう言いにくそうに話し出す。
「お前は津軽衆ではない。だからこそ熱狂に惑わされず……違うところから、見晴らしの良きところから物事が見えよう。お前には出陣させぬ。だが……誰よりも重い任ぞ。」
そして二日後の旧暦七月七日の七夕。弟を置いて為信は出陣した。
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