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天正六年(1578)、津軽為信は浪岡御所を攻略した。
その過程において多くの者が死に絶え、路頭に迷い、為信に対し恨みを抱いた。御所号である北畠顕村を賭け事へ興じさせ、一族の長老の死を持って浪岡を混乱に陥れた。策謀によって為信方についた者は数知れず、好機を逃さずして為信の手に落ちる。
しかし悪逆無道ばかりと思いきや、為信率いる津軽家には大義名分があった。
”浪岡へ押し入った賊徒を成敗して、御所号を助け至らしめる”と。なので敵方や民百姓の目から見ても、あきらかに賊徒も為信の仕組んだ悪謀なのだが、為信本隊はあくまで賊徒を倒すべく出陣した正義の軍。その名分を得るためには御所号の身柄を確保する必要があるのだが、彼には人から真相を聞くことのできる”耳”があり、悪行を罵るための”口”もある。そこで為信は”賊徒”に扮した仲間らに命じて、御所号を死へと至らしめた。代わりとなったのは御所号の赤子。安東氏より来た正室との間に生まれた彼を押し立てれば名分を保てる。
だが、予期しない事態が起こる。
為信に従ったはずの北畠旧臣が母と子を奪い、あろうことか母方の安東氏の元へ連れ去ったのである。こうなれば津軽家が浪岡を支配する正当性がなくなり、同盟を組んでいたはずの安東氏とも手切れとなりかねない。……ではどうする。すると家来の兼平綱則が動いた。
”いまだ水木館に籠る水谷利顕は、その実は北畠の血筋。水谷氏に幼少のころ養子として入ったが、敗れ去った川原御所の忘れ形見である”
北畠の直系ではないものの、十分に”御所号”を名乗れる立場である。赤子の代わりに彼を御所号に押し立て、正当性をなんとか保とうではないかと。利顕自身は館で討ち死にの覚悟であったが、仲間らの説得に応じて投降。事態の成り行きに困惑したものの、津軽に多く残る北畠の旧臣を助けるため、新しく傀儡政権である水木御所の成立を宣言した。浪岡の土地を返されることなく、本領は水木周辺に限定され、辺りに散らばる北畠旧臣の拠点をまとめる役割を担う。その中には管領家の多田氏などが属す。
津軽の地に戻る北畠旧臣も確かに一定数いた。だが為信支配に甘んじずに抵抗しようとする者、数多おり。
安東氏の元には亡き御所号の赤子がいるので、守る北畠旧臣の石堂頼久を中心として一つの勢力が結集されつつあった。南部領の油川には北畠顕氏、後の顕則を新しい御所号として打ち立て、油川城内には北畠仮殿と呼ばれる屋敷まで作られた。そのような動きが津軽の外側であったので、いくら内側に拠点こそあるものの、動静を明らかにしない者もいた。主に津軽平野の北部に多く、例えば飯詰朝日氏や原子菊池氏である。
そして……津軽為信を討たんと欲する大人物。
南部家臣である”滝本重行”、彼は為信へ最後まで抵抗し続ける。
ただし彼のやり方は激しすぎた。軋轢は新たなる遺恨を生み、自分の首をも絞める。
そんな彼の周りからドラマは始まる。
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