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小説 セレスホテルの闇
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Contents
SNS上で起きた騒動
僕と彼は、この騒動を最初から観察し続けていた。ネット上ではこれを「羽生の宿騒動」と呼ぶらしい。とあるフィギュアスケートの引退選手が八戸で12月にアイスショーを開催することになったが、その際に八戸の某ホテル――ここではセレスホテルと名付けよう――が客室の値段を9万円に設定し、大騒ぎになったのである。
彼にとってこの出来事は、復讐を果たしたという快感を伴うものだった。それで僕に歓喜のメールを送ってきた。僕は彼に「一旦落ち着け」となだめたものの、やはり僕自身も社会正義が達成されたような気がしたし、冷静だったはずの思考の中にも若干の快感はあったかもしれない。それは否定しないが、一方でその刃が向けられた先にあるものは……己の破滅なのかもしれない。
普段であれば、こんな高値を付けても騒ぎにはならないし、注目すらされない。青森ねぶた祭のホテル料金の方が遥かに高く売られている。それなのに、なぜ世間を巻き込むほどの騒動に発展したのか。ご存知の方もいるだろうが、これは安値で売られていた当時の予約をキャンセルし、改めて高値で売り直したからだと言われている。しかしこの説はセレスホテル公式で否定された。実際にキャンセルが発生したのは他のホテルだったという。
とはいえ、高い値段を付けていたこと自体は事実だ。いくらダイナミックプライシングとはいえ、あの値段を付けてしまえば多くの人が驚くのは当然。その中核をなすのが熱心なフィギュアファンとなれば、相当な勢いになるのも無理はない。だが、この時点で誰もがこんな騒動になるとは想像していなかった。最大の要因は、とあるSNSの巨大インフルエンサーがキャンセルの件と値段設定の件を混ぜてツイートし、セレスホテルのサーバーダウンまで引き起こしたことだった。
もしかするとホテル側はこの件で訴訟に踏み切るかもしれない。しかし、ここで疑問に思ってほしいことが一つある。なぜセレスホテルは、某巨大インフルエンサーがツイートする瞬間まで9万円以上もの価格帯を維持し続けていたのか?もちろんその値段で売りたいからに他ならないが、この一連の騒動を最初から眺めていても知り得ない根本的な原因があった。
本社の指示だったのかもしれないが、一気に予約が入る様子を見て料金を即座に変えるような対応は、それぞれのホテルにしかできないはずだ。あるいは最近よく聞くAIなのか?これに関しては確かめようがないが、あくまで人が作ったものなので、人為的に設定を変えることは可能だろう。
根本的な原因――なぜ多くのヘイトを集めてまで、その価格帯を維持し続けたのか?SNSの状況をホテル側も知っていたはずなのに。
その答えを知るためには、過去に戻り2019年、しかも八戸ではなく青森にまで遡らなければならない。そしてそれは僕と彼がこれまで努めてきたことだ。
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催事があれば非常に高い値段で部屋を売るという行為――彼の記憶を辿ると、その発端は2019年の青森に遡る。当時、彼はその某ホテル、すなわちセレスホテルの従業員だった。
ところで、なぜ青森の話をするのかと疑問に思うかもしれない。「羽生の宿騒動」は八戸で起きた出来事だ。しかし実際には、セレスホテルは青森市内に1店舗、八戸市内に2店舗を有し、これらは同じ管轄下にあった。ここではブロック長を仮に大矢さんと呼ぶ。その大矢さんは本社から「どうにかしてもう少し“ねぶたプラン”を高く売ることはできないか」と指示を受けていたという。
セレスホテルのねぶたプランの価格設定は、例年2万円台から7万円台。シングルからトリプルルームへと部屋のグレードが上がるごとに、順当に値段も上がっていく。この価格を高いと感じるかもしれないが、青森市内の他ホテルも同様の設定である。
そこで、例年より1万円ほど価格を上乗せするために、プランに土産物を付けることにした。しかし彼は思った。「土産物ならお客様が自分で好きなものを買えばよいのではないか。わざわざプランに付ける必要があるのか」と。
お客様にはそれぞれ好みがある。プランに付けるより、自由に選んでいただいた方が良いだろうと考えた。セレスホテルには土産物を販売する売店がなかったため、ねぶた期間だけでも売店を呼んではどうかと提案した。実際、交差点向かいのホテルでは売店が常設されていた。
しかし、この案に大矢さんをはじめ、ほぼ全ての従業員が難色を示した。「売るとなれば自分たちの仕事が増えるから嫌だ」と。プランにあらかじめ土産物を付けてしまえば、ただ渡すだけで済む。会計を間違えるリスクもない。普段から会計が合わない現場ならではの悩みかもしれない。
そこで彼は、土産物にホテルでしか手に入らないプレミア感を持たせるべきだと考え、某キャラクターショップと提携してグッズ販売をしている青森市内の店と連絡を取り、珍しい土産物を選ぶのが良いのではと提案した。しかしこれも却下された。大矢さんとしては、ねぶたの定番から逸脱しすぎるのは良くないし、そのキャラクターが嫌いな人もいるかもしれない、という理由だった。
ここまでの話なら、他の青森市内のホテルでもありそうな内容だが、ここからが違った。
「よし、楽天やじゃらんは1万円上乗せで3万円台から売るけど、agodaでは7万円からスタートにするぞ!」
「はっ?」
「agodaはまだ日本に浸透していないし、主に海外の人が見ている。だから彼らに高値で売りつける。もし非難されても言葉が通じないし、そもそもリピーターになる可能性も低い。」
「えっ?」
「ついこの間、宴会場の天井から水漏れして、朝食中のお客様にじろじろ見られたじゃないですか。各部屋のお風呂の排水も、そのまま栓を抜くと汚水が溢れるから、大きなナットを買ってきて排水溝に入れて流れる速度を遅くしている部屋もある。それでもまだ汚水は溢れる。そんな部屋を7万円から売るんですか?」
「しかも、原価1000円にも満たない土産を付けても、ガイドや観覧席が付くわけでもない。朝食が少し豪華になるだけで、それ以上のことは何もないのに……。」
逆に考えれば、そこでしっかり稼ぐことで客室の修復費用を捻出できる。セレスホテルは全国各地の中古ホテルをリノベーションする事業を行っている。だからこそ高く売る必要があるのだと語るが、日に日に故障が増えるホテルにリミットが近づいているようにも感じ、商売としての限界も見えていた。
それに、あくまで客が「ねぶた」という祭りに惹かれて泊まりに来るのだから、高い値段が嫌なら予約しなければいいだけの話……。
結果として、彼だけが反対だった。それは単純に高く売れればセレスホテルの売上が上がり、社員の報奨金が増えるから。普段は手取り13万円のところ、3万円増えれば大喜びという状況だった。ではなぜ彼だけが反対できたのか。それは倫理観や良心もあったが、実は裏でトレーダーとして稼いでいたからである。通貨や先物も手掛けていたが、観光業界に魅力を感じてホテルに勤めていたのだ。
ある意味でホテル以外に生活の糧があったことが、その判断に影響していた。しかし、それを全く知らない他の社員には理解できなかっただろう。
結局その年、セレスホテル青森はねぶたプランでしっかり稼げたのか?
……実は、できなかった。
最初こそagodaで売った7万円から13万円の部屋は好調だったものの、途中から全予約サイトで販売が不調になった。これは、おそらく6月上旬というねぶたプランとしては遅い時期に販売を始めたためだろう。大きな祭りともなると3~4カ月前から予約を入れる人が多く、一番売れ行きが良いのは3月~5月頃だ。そんな状況下で6月から販売を始めても思うようにいかないのは当然。しかも従来より高い料金設定ならなおさらだ。
ちなみに彼は7月中旬に、こっそり料金を1万円ほど下げるという暴挙に出た。一応大矢さんの許可は得たが、他の従業員からは批判の的だった。なにせ報奨金が下がってしまうのだから。
結果として8月度の売り上げは目標を達成できず、報奨金自体も全員がもらうことはできなかった。他の社員は彼が料金を下げたせいだと言ったが、それは違う。売れ残るのは従来より高い料金設定のせいであり、大矢さんを含め上層部はそれを認めなかった。
これが2019年、値段の吊り上げをグループ全体で最初に行った例となった。その翌年、さらに次の年も、本社で設定した目標を達成するために、部屋の価値と相反するような価格設定をしようと上層部は考えた。「ねぶた祭り」という価値を過信することで、倫理観が封じ込められていったのである。
次のターニングポイントは、2020年3月だった。
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発端 それは2019年
催事があれば非常に高い値段で部屋を売るという行為――彼の記憶を辿ると、その発端は2019年の青森に遡る。当時、彼はその某ホテル、すなわちセレスホテルの従業員だった。
ところで、なぜ青森の話をするのかと疑問に思うかもしれない。「羽生の宿騒動」は八戸で起きた出来事だ。しかし実際には、セレスホテルは青森市内に1店舗、八戸市内に2店舗を有し、これらは同じ管轄下にあった。ここではブロック長を仮に大矢さんと呼ぶ。その大矢さんは本社から「どうにかしてもう少し“ねぶたプラン”を高く売ることはできないか」と指示を受けていたという。
セレスホテルのねぶたプランの価格設定は、例年2万円台から7万円台。シングルからトリプルルームへと部屋のグレードが上がるごとに、順当に値段も上がっていく。この価格を高いと感じるかもしれないが、青森市内の他ホテルも同様の設定である。
そこで、例年より1万円ほど価格を上乗せするために、プランに土産物を付けることにした。しかし彼は思った。「土産物ならお客様が自分で好きなものを買えばよいのではないか。わざわざプランに付ける必要があるのか」と。
お客様にはそれぞれ好みがある。プランに付けるより、自由に選んでいただいた方が良いだろうと考えた。セレスホテルには土産物を販売する売店がなかったため、ねぶた期間だけでも売店を呼んではどうかと提案した。実際、交差点向かいのホテルでは売店が常設されていた。
しかし、この案に大矢さんをはじめ、ほぼ全ての従業員が難色を示した。「売るとなれば自分たちの仕事が増えるから嫌だ」と。プランにあらかじめ土産物を付けてしまえば、ただ渡すだけで済む。会計を間違えるリスクもない。普段から会計が合わない現場ならではの悩みかもしれない。
そこで彼は、土産物にホテルでしか手に入らないプレミア感を持たせるべきだと考え、某キャラクターショップと提携してグッズ販売をしている青森市内の店と連絡を取り、珍しい土産物を選ぶのが良いのではと提案した。しかしこれも却下された。大矢さんとしては、ねぶたの定番から逸脱しすぎるのは良くないし、そのキャラクターが嫌いな人もいるかもしれない、という理由だった。
ここまでの話なら、他の青森市内のホテルでもありそうな内容だが、ここからが違った。
「よし、楽天やじゃらんは1万円上乗せで3万円台から売るけど、agodaでは7万円からスタートにするぞ!」
「はっ?」
「agodaはまだ日本に浸透していないし、主に海外の人が見ている。だから彼らに高値で売りつける。もし非難されても言葉が通じないし、そもそもリピーターになる可能性も低い。」
「えっ?」
「ついこの間、宴会場の天井から水漏れして、朝食中のお客様にじろじろ見られたじゃないですか。各部屋のお風呂の排水も、そのまま栓を抜くと汚水が溢れるから、大きなナットを買ってきて排水溝に入れて流れる速度を遅くしている部屋もある。それでもまだ汚水は溢れる。そんな部屋を7万円から売るんですか?」
「しかも、原価1000円にも満たない土産を付けても、ガイドや観覧席が付くわけでもない。朝食が少し豪華になるだけで、それ以上のことは何もないのに……。」
逆に考えれば、そこでしっかり稼ぐことで客室の修復費用を捻出できる。セレスホテルは全国各地の中古ホテルをリノベーションする事業を行っている。だからこそ高く売る必要があるのだと語るが、日に日に故障が増えるホテルにリミットが近づいているようにも感じ、商売としての限界も見えていた。
それに、あくまで客が「ねぶた」という祭りに惹かれて泊まりに来るのだから、高い値段が嫌なら予約しなければいいだけの話……。
結果として、彼だけが反対だった。それは単純に高く売れればセレスホテルの売上が上がり、社員の報奨金が増えるから。普段は手取り13万円のところ、3万円増えれば大喜びという状況だった。ではなぜ彼だけが反対できたのか。それは倫理観や良心もあったが、実は裏でトレーダーとして稼いでいたからである。通貨や先物も手掛けていたが、観光業界に魅力を感じてホテルに勤めていたのだ。
ある意味でホテル以外に生活の糧があったことが、その判断に影響していた。しかし、それを全く知らない他の社員には理解できなかっただろう。
結局その年、セレスホテル青森はねぶたプランでしっかり稼げたのか?
……実は、できなかった。
最初こそagodaで売った7万円から13万円の部屋は好調だったものの、途中から全予約サイトで販売が不調になった。これは、おそらく6月上旬というねぶたプランとしては遅い時期に販売を始めたためだろう。大きな祭りともなると3~4カ月前から予約を入れる人が多く、一番売れ行きが良いのは3月~5月頃だ。そんな状況下で6月から販売を始めても思うようにいかないのは当然。しかも従来より高い料金設定ならなおさらだ。
ちなみに彼は7月中旬に、こっそり料金を1万円ほど下げるという暴挙に出た。一応大矢さんの許可は得たが、他の従業員からは批判の的だった。なにせ報奨金が下がってしまうのだから。
結果として8月度の売り上げは目標を達成できず、報奨金自体も全員がもらうことはできなかった。他の社員は彼が料金を下げたせいだと言ったが、それは違う。売れ残るのは従来より高い料金設定のせいであり、大矢さんを含め上層部はそれを認めなかった。
これが2019年、値段の吊り上げをグループ全体で最初に行った例となった。その翌年、さらに次の年も、本社で設定した目標を達成するために、部屋の価値と相反するような価格設定をしようと上層部は考えた。「ねぶた祭り」という価値を過信することで、倫理観が封じ込められていったのである。
次のターニングポイントは、2020年3月だった。
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中国人留学生宿泊拒否の一件
彼が退職してから――正確には4月初めにはすでに転職先を決めていたので、法的には5月には次の職場に移れるはずだった。しかし、当時のいわくつきの支配人・田野倉さんは「1ヶ月待ってくれないか」と無駄に引き留めをした。説得がしつこかったため、ひとまず新しい職場に電話して了承を得たが、田野倉さんはその短い間にコロナ禍が収束し、彼が気変わりするとでも踏んでいたのかもしれない。社員サービスも徹底され始め、宿泊客が減って規定通り社員が出社する必要もなくなったため、「コロナ特例の雇用調整助成金が国から給付されるので、給料は出勤時と同様に支払うから休んでいい」という制度が作られた。その休みを利用して彼は新しいアパートを探し、引越しを済ませたのは皮肉な話である。
そういえば彼が転職を決断する前、支配人よりもさらに上のブロック長・大矢さんからも電話があった。
「ずっと俺は君を八戸中央の支配人にと考えてきた。でも1年以上断り続けているのは何なんだ。本八戸の方がいいのか?いい加減支配人になる気があるか決断してくれ」
結果として彼の決断は間違いではなかった。今日のセレスホテル八戸中央の炎上騒ぎを見れば尚更だろう。ただし断り続けていた理由は、今の事態を予想したからではなく、単に彼自身が支配人という立場に魅力を感じていなかったからである。問題のある店舗を受け持つ気は毛頭なく、給料も1万円増えるだけだった。
ホテルへ振り替えることなく去った彼を見て、田野倉さんはありとあらゆることを彼のせいにした。思うようにいかない今の状況を何かに当たりたかったのもあるだろうし、何のためらいもなく職場を捨てることができることへの驚きややっかみもあったのだろう。ちなみに彼自身も「ホテルが大変な時に逃げるのか」という思いから、多くの従業員に敵視されていたので、4月ごろからは「人から見える仕事」のみしっかり行っていたという。
SNSで脅しをかけるような田野倉さんのツイートを見て怯える彼。そこでしばらく支配人のアカウントを見ないことにした。しかし、その間に例の事案が起きていたとは――。
《東邦日報7月紙面より抜粋》
身分証不提示、青森のホテルで宿泊拒否/中国人留学生不快
観光客の増加に向け、おもてなしの向上を図ってきた青森県。新型コロナウイルス禍の中、宿泊施設は難しい対応を求められているが、関係者の間にはあらためてコンプライアンスの徹底を求める声もある。
6月下旬、身分証を提示しなかったことをきっかけに、20代の中国人男性留学生が青森市内のホテルに「宿泊を断られた」ケースがあった。身分証を示さないことを理由に宿泊を断ることは、旅館業法に違反する。ホテル側は、男性とのやりとりに関する説明を避けているが、新型コロナウイルスが収束していないこともあり、県内の宿泊業者の中にはホテル側の対応に一定の理解を示す声もある。
男性は関西地方の私立大学4年生で、日本に住んで5年目。就職活動のため青森県を訪れ、青森県を離れた後、東邦日報「あなたの声から『フカヨミ』取材班」に情報を寄せた。
旅館業法は(1)伝染性疾病にかかっていると認められるとき、(2)賭博など違法行為をする恐れがあるとき、などを除いて「宿泊を拒んではならない」と規定。コロナ感染拡大を受けて日本ホテル協会が定めたガイドラインは、国内に住所がない外国人の宿泊者に対しては「国籍と旅券番号を記載し、旅券の写しを保管しましょう」と記すが、国内に住む外国人については特に触れていない。
男性は6月21日夕方、事前予約していたホテルにチェックインする際、フロントスタッフから在留カードやパスポートの提示を求められた。男性は「(提示する)法的根拠がない。民間人に在留カードなど大切なものを安易に見せることに抵抗があった」ため、提示しなかった。するとスタッフから「それでは宿泊できない。別の宿を探してほしい」と言われたという。
男性は警察官を呼び、警察官に身分証を提示。警察官から内容を説明してもらったが、それでも宿泊を認めてもらえなかった。男性は「ホテル側は警察官を通じて身分を確認したとして宿泊を認めてくれてもよかったのではないか」と話す。男性は国内企業から内定をもらっており、今後も日本で暮らす予定だが、「今回のことは不快に思った」と語った。
一方、ホテルの管理会社(東京)の担当者は取材に対し「社内で調査したが、当方としては宿泊拒否をしていないという認識だ」と答えた。ただ、男性とのやりとりについては「顧客情報のため明らかにできない」と繰り返し、スタッフの対応に関する詳しい説明はなかった。
最初、彼自身はそんな事案が起こっていたことを全く知らなかった。しかし非通知着信が初めて来たことで、もしかして……と久しぶりに興味本位で支配人のアカウントを覗いた。すると、事案が起きたのはまさしくセレスホテル青森であり、拒否した当事者が支配人の田野倉さんだったことが分かった。しかもそれを、すでに退職していた彼が暴力団を使って悪意を持って仕掛けたことにしていた。
つまり彼がもしあと1ヶ月長く勤めていたらこの事件に遭遇していたかもしれないし、当事者にさせられていた可能性もある。相手が中国人だということで英語を使う必要があっただろうか。英語がまともに話せる社員は彼だけであり、意思疎通困難の先に行き違いがあったのかもしれない。しかし、留学生でしかも日本に住んで5年目なら、日本語もかなり上手いはずだ。
その紙面に踊る話を僕に動揺しながら話す彼だったが――ここで彼は思い出した。セレスホテルが急ごしらえで作ったコロナ対策マニュアルのことだ。確かに相当厳しいことが書いてあり、海外から来たと思われる方には「宿泊拒否してもいい」と書かれていたらしい。しかもそれで相手と言い争いになれば、なおさら意固地になってしまう。あの田野倉さんならやりかねない。
その後、田野倉さんがどうなったかは分からない。彼自身は他の従業員と連絡を取っていないそうだ。しかし社員向けに配信されているYouTubeで社長が「問題を起こした社員がいました」とコメントしていたので、おそらくは叱責されたに違いない。
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戦争開始
長きにわたる“戦争”の発端となったのは、転職先への暴言電話だった。
『彼は悪いやつで、貴社とは別に副業で給料を得ている。これは職務規定に違反しないか?しかも以前の会社で犯した罪を償いきれていない。おそらくは暴力団と繋がっているはずだ。』
この話が彼に直接伝えられることはなかったが、職員同士で噂されているのを耳にした。
副業については、おそらくトレーダーとしてではなく、僕のサイト運営に携わっていることが誤解されたのだろう。実際、彼は趣味の一環として関わっているだけで、一銭も受け取っていない。さらに、転職先の名前から町立、つまり公務員だと誤解されたのだろうが、実際は私立である。
しかも、以前起きた中国人留学生の宿泊拒否の件――あの一件も、まだ疑われているようだった。
幸せに生きていることが、そんなに憎いのか。
彼は反撃の一手を探した。
これはあくまで正当な手段でなければならない。
そして偶然、セレスホテル青森がねぶたプランを客室20万円で販売している現場を見つけてしまった。シングル2万円から始まり、トリプルルームは20万円。普段はトリプルを1万円で売っていたので、20倍の価格である。
この情報を彼から受け取った僕も協力を申し出て、今に続く“反撃”が始まった。
だが僕は、彼に問いかけた。
『その世間体の悪い事実を広めるのはいいとして、例えば一緒に働いてきた仲間にも不評を買うことになる。それに以前の支配人が問題を起こしたとするなら、もうすでに退職しているかもしれないぞ。』
しかし彼は言った。
『もしホテルに僅かでも倫理観が残っているなら……それに賭けてみたい。どのみちこれは正常な沙汰じゃない。辞めた人間がとやかく言う筋合いはないけど、もし従業員を批判から守ろうとする気がホテルにあるのなら、記事を見つけたらすぐに値段を例年通りに戻すに違いないから。』
『誰か従業員に連絡は取れないのか?』
『取れるはずがないだろう。』
僕の運営するサイトは全国的に見れば規模は小さいが、確実に青森市全体に声が届くレベルの読者数はある。影響は必ずあるはずだ。
彼にとっては“反撃”という意図だろうが、僕にとっては社会をあるべき姿に戻すという意味で有意義だと感じた。それはぼったくりにしか見えず、つまるところ社会悪なのかもしれない。もちろん値段を付けること自体は自由だし、お客様側にも選択の自由がある。しかしこのホテルを契機に他のホテルまで追随するようになれば、ねぶた祭り自体が崩壊する。世間に開かれたものではなくなり、一部の金持ちだけの祭りになってしまう。そんなことを危惧した。
では記事化するにあたり、ホテル料金をどのように表現すればいいのか。その点に関しては彼の方が優れていて、トレーダーとして稼いでいる知見が活かされた。FXであれば通貨のレートを時間足・日足・月足のローソクで常に監視し、過去データをエクセルに落として研究するのはお手の物だ。その手法をホテル料金に当てはめれば良いだけなのだから。
2021年4月27日、最初の記事を公開。青森市街地を中心に、20社ものホテル料金変動の掲載を開始した。各ホテルで一番安い客室料金を最安値(シングル等料金)、一番高い料金を最高値(ダブル・トリプル等料金)としてデータを集めることにした。
5月1日、セレスホテル青森はトリプルルームを45万円に値上げ。
5月3日、上記値上げの件も含めて既出記事を更新。
このタイミングでセレスホテル側も気づいたようだ。月をまたいで料金をさらに強気に変えたのは、売上目標に達しないと圧をかけられたのか、前年の叱責を挽回するためだったのかもしれない。
さすがに45万円という値段を公にさらすのは引け目を感じたのだろう。翌日から一時的に38万円に下げた。しかし3日後には「もう公開してから数日経つし、もう読む人もいないだろう」とでも思ったのか、再び45万円に戻した。
彼はその行為を滑稽に思い、38万円だった日のレートを避けて45万円に戻した日からのレートを掲載し、そうした一連の行為を追ううちに隔日でレートをチェックする体制を確立した。
5月9日、2本目となる関連記事を公開。
ホテル側も意固地になり、トリプルルームを45万円台から変えなかった。
その状態がしばらく続いた。
周辺地域の祭りやイベントの中止発表が相次ぎ、青森ねぶた祭も開催が危ぶまれ始めた。
そしてホテルは5月下旬、暴挙に出た。
わざとシングルルームを45万円にして、トリプルルームを3万円にしたのだ。
記事上ではホテルの一番安い値段と高い値段を載せていたが、安い値段の客室にはシングルが多く、高い方にはダブルやトリプルが集中していた。そこで注釈として「最安値(シングル等料金)」「最高値(ダブル・トリプル等料金)」と明記していたが、そこを崩そうとしたのだろう。
しかし僕と彼にとっては、純粋に一番安い料金と高い料金を載せていくだけであり、シングルとトリプルルームの値段が逆になってもやることは変わらない。だが、もしそれを当サイト目掛けてやっているのだとすれば、お客様のことを一切考えない暴挙であると言える。
2021年6月2日、東邦日報より青森ねぶた祭り中止の報道が流れた。
6月3日、3本目となる記事を公開。
この時は弘前さくら祭りの件と絡めた結果、多くの方に読んでいただけた。おそらく全ての方にとって、裏でこういった意図があってやっていることなど想像もつかなかっただろう。
SNS上でものすごい勢いで記事がリツイートされていく様子を見て……
セレスホテルは記事公開2時間後に最高値を45万円から1万円に下げた。
残念ながら当該ホテルはキャンセル不可としてねぶたプランを販売していたため、仮に20万、30万の客室に泊まることがなくても全額返金されることはなかった。ただし、同様のパターンの他ホテルではキャンセル料全額返すと方針転換を表明していたが、最終的にセレスホテルがどのような判断をしたかは不明である。
1つの大きな流れが終わった後、僕が思ったのは――他ホテルの料金も、中止報道後の対応も全て衆人環視の場にさらされるようになったということだ。まさかセレスホテルの内輪揉めとも言える行為が、他ホテルの経営方針をも変える事態になっていくとは、誰が想像しただろうか。
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先制攻撃
2021年は非通知着信が多い年となったらしい。
堂々と文句があるなら、彼のスマホに上司の電話やホテルの公式電話からかければいいのに、引け目があるからか、そうはできないのだろう。
年が明け、2022年。
彼と僕は今年、セレスホテルがねぶたプランを売り出す前に先制パンチを食らわせてやろうと決めた。というのも、前年の記事はコロナ禍による影響とねぶた料金の話を混ぜたため、読んでほしい読者層に声が届いていなかった可能性があったからだ。コロナ禍全般のニュースを避ける人も一定数いるので、今度は純粋にねぶた祭りにおける料金変動だけをテーマにすれば、多くの方に読んでもらえるのではないかと考えた。
そして4本目の記事を2022年3月18日に公開。
過去に集めていたデータを再編集し、誰もが読みやすいよう工夫した。これほど高騰したねぶた料金は一部のホテルで起きたことであり、多くのホテルは開催の可否が判明するまで売り控えをしていたという事実も伝える必要があった。正しい情報ができる限り拡散されるように祈りながら書いたのを覚えている。
加えて記事とは別に、ホテルレートの最新情報を各SNSで流し続け、衆人環視の状況を作り出すことに努めた。これは全てのホテルに言えることだが、客室料金自体の情報価値は、予約サイトに載っているものもSNSや記事で流されたものも本質的には同じはずだ。だから高い値段をつけていても、SNSや記事で取り上げられたからといって本来怯える必要はない。自信があるなら堂々としていればいいのだ。
青森市における多くのホテルの客室が前年に比べて格段に安くなった事実は、これまでお客様を軽視してきたことの裏返しでもある。
堂々とできなかったセレスホテル青森は、なかなか客室販売を開始しなかった。その代わり、記事公開後、八戸中央と本八戸のレートに従来の販売価格に1万円ほど上乗せして売上を補おうとしていたが、果たしてその効果はどうだったのだろうか。
4月11日、突如として記事のアクセスが急上昇。同じころ、彼に非通知着信があった。
4月13日、北奧新報より記事が公開。
「青森県内宿泊ゼロ」“ねぶた料金”も災いか
間もなく「弘前さくらまつり」が始まる。某社の「全国『さくら県』イメージランキング」では、青森県は全国3位に入った。多くの人がやってくるのは確実だ。その人たちが桜以外の良さにも触れ、青森県の食材・料理や土産品などを購入してもらうためにも県内に宿泊してもらうことが重要だ。繁忙だけを理由に、料金を桁外れに上げる「ねぶた料金」は、やめにしなければならないのだ。
おそらく彼の元職場に取材が入り、動揺した誰か――あるいはブロック長の大矢さんかもしれない――が、文句を言いたさに非通知着信をしてきたのだろう。
彼は言う。
『毎回思うのだけど、着信が来るのは午前9時から11時くらいで、職場ではスマホは休憩中以外ずっとロッカーに入れっぱなしだから……出ようにも出られないのよね。』
先方は昼休みを狙うとか、そういった知恵が働かないらしい。残念だ。
逆に言えば、ホテル業自体に「昼休みは12時~13時にとる」という概念が薄く、シフト制なので休憩時間もきっちり定まっているわけではない。だから“定時で休む会社がある”という発想に結びつかないのだろうか。
5月19日、再び非通知着信あり。
『これはまた新聞の取材を受けたな?』と受け取った僕と彼はネット上で探してみると、ネット紙面の経済舎で記事が出ていた。要点としては――
#青森ねぶた祭 は6日間の期間中、県GDPの1%弱を稼ぐ。
地域経済への影響度が最も大きかったのは382億円の #ねぶた祭 で、域内経済効果指数は全国平均を7.4ポイント上回る8.7。
#ねぶた 集客数が285万人と突出する。
おそらくは高値の理由を知らない経済舎が、純粋にその理由を知りたくてセレスホテルに取材申し入れをしたのだろう。もちろん断られただろうが、代わりに秋田で一番高いホテルが取材を受けていた。
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ホテル側、高値販売を断念
2022年6月30日。
これまでねぶたプランの販売開始を躊躇していたセレスホテル青森は、楽天とじゃらんにて2万円台~7万円台の価格設定で販売を開始した。ちなみにagodaでの販売も同じ価格帯だが、やや控えめな設定にしたようだ。販売料金が衆人環視の状況となったことで、セレスホテルは45万円という異常な高値での販売を、社会的影響を考慮して回避したのだ。
この時点でホテルは一切の客室が売れていない状況だった可能性がある。他のホテルであれば旅行業者に事前に一定数の客室を売り渡すことが多いが、セレスホテルはそれを嫌う。自由に価格を設定して個人客に販売した方が売上が上がるという考えからだ。そのため、これ以上僕らの動向を気にして販売を躊躇していては、客室の販売自体ができなくなるという焦りもあっただろう。
なお、なぜagodaでの販売を控えめにしたかというと、ねぶた料金のレート表作成時にagodaの情報を基準としていたためだ。特に基準日としていた8月2日での販売は避けていたように思われる。本来は一般的なねぶた料金で販売すればよいはずだが、ここにホテル側の心理的葛藤が見て取れる。負けを認めたくなかったのだ。
おそらくセレスホテルなりに売上目標を定めていたに違いない。例年は10月に目標を決めているという。昨年の時点では「まさか来年も妨害に遭うはずはないだろう」と油断していたのかもしれない。しかし彼と僕はやるべきことを続けた。彼は元職場への反撃のために、僕はねぶたという文化を守るため、多くの人々に祭りを楽しんでもらい、嫌な思いをする人をなくすために。
こうしてセレスホテルは高値での客室販売を諦めたが、仮に販売できていたとしても思うように売れたかは疑わしい。コロナ第7波の影響で他ホテルでも予約キャンセルが相次いだのは事実だ。
ともかく、ねぶたで想定通りの売上は達成できなかった。この分をどこかで補う必要があった。
ここでチャンスが巡ってきた。
とあるフィギュアスケートの引退選手が八戸でイベントを開くことになり、予約が凄まじい勢いで入る様子を見て、ホテル側も慌てて調べたのだろう。
大矢さんは青森1店舗と八戸2店舗を束ねるブロック長。青森の損失を八戸で補うのは当然とされ、ここはどんなにヘイトを集めても高値で販売し続けなければならない。仮に高値で売り続けても、45万円で販売していた当時、ホテルのサーバーがダウンするような事態には至らなかったという“経験”もあった。
これが油断につながった。
想定外だったのは、他のホテルでキャンセル騒ぎが起きたことだ。
ヘイトの波はこのキャンセル騒ぎも巻き込み、さらに燃え上がる。
そして某巨大インフルエンサーがツイートしたことを契機に、セレスホテルは悪名を纏うことになった。いまでも誤解されたまま情報が伝播し、公式がいくら否定しても、正しい情報が流れているとは言えない状況だ。
この事案が今後どのような展開を迎えるかは、彼にも僕にも分からない。
余談だが、僕が彼に話していない事実が一つある。ハローワーク当局者から偶然聞いた話だが、セレスホテル青森の正職員は今やたった1名だという。彼がいた当時は彼を含めて6名いたはずだ。ちなみに、田野倉という名前ではない人物が採用担当者として載っている。戦争の成れの果ては、彼の望んだ世界なのだろうか。
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