【小説 津軽藩起始 油川編】エピローグ 明誓寺開山 寛文三年(1663)

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 次に大浦為信は、津軽中原に残る南部勢力の一掃を図った。その中には既出の田舎館いなかだて千徳もあり、あの有名な千姫の悲劇へと繋がる。

 一方で現在の五所川原から続く岩木川下流域の攻略は、有志の兵らに任せたという。そこには未だ旧浪岡北畠勢力が根差していたが、彼らは油川攻略によって南部氏の手の届かぬところと相成った。孤独無縁ならば大浦軍本隊が攻め入らぬでもいずれ落ちるだろうと見込んでのことだ。案の定、元摂津国の住民である生玉なまたま角兵衛かくべえらを中心に他国者などの兵らが徒党を作り、諸城を次々と攻略。原子はらこ菊池氏や飯詰いんづめ朝日氏は滅亡し、さらに北の嘉瀬かせ金木かなぎも大浦家の勢力下に組み込まれた。

 そのうち金木の未開拓地域を生玉が恩賞としてもらい受け、仲間らを近くに呼び寄せた。中心となる拠点として真宗南台なんだい寺を創建、生玉の法号である“休西坊きゅうさいぼう”として、さらに中央で行き所を失った同宗の者らを勧誘。寺に伝わる由緒書きによれば、生玉の弟である中村伊左衛門は慶長八年(1603)に津軽入りし、土地の百姓らとも合力して今の金木町の原形を作り上げたという。この地の有史は彼らから始まったのだ。

 その陰で取り残されたのは油川あぶらかわ明行みょうこう寺の妙誓みょうせい尼。住職の座は再び頼英らいえいへと戻り、慶長十一年(1606)に寺ごと弘前への転居の命を受けた(今の円明寺)。だが妙誓のみこれを拒否。油川から一軒も寺がなくなる事態を憂い、何もなくなった寺の跡地に彼女だけが残り、民に寄り添い続けた……。もちろん為信が嫌いで(肝心の彼は亡くなってはいたが)、個人的な心情としてもそのおひざ元へ下るのはありえぬ。ただしそれ以上に、自らにまつろわぬ油川の民と信仰を切り離してしまえという津軽藩の所業に従う訳には参らぬ。さらに藩は油川から権益も取り上げてしまえと、寛永三年(1626)隣に新たなる港として “青森村” を作って開港させた。これにより商都油川の立場は失われ、人は離れていったという。この青森村が、今の青森市の中心である。

 油川が穏やかにかつ確実に衰えていく惨状を目にしつつ……妙誓は息絶えた。ただし彼女の誘いに応じて参じた僧侶らが、荒廃してしまった浄満じょうまん寺を元和五年(1619)に再建。さらには妙誓の事を忘れまいと、老いた町衆らが寛文三年(1663)に彼女の名前より ”明誓みょうせい寺” を開山した。

 今に生きる者らで、この話を語り継ぐものはいない。ただし ”じょっぱり ”の心だけは忘れず、未だ根付いているのだ。

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