↓↓前回記事はこちらから↓↓
この三内霊園誕生秘話ってのを載せ終わると、自著の青森市のありえない話四部作すべてが終わります。これまでセンセーショナルなものばっかり取り扱いましたけど、最後は穏やかに終わるかなと思います。
起承転結があれば、結がこれです。これは資料としてとことん残っている話ですので、僕よりも先に誰かが書いていてもよかったと思うのですが……三内霊園でいくら調べても”幽霊出た”とか、”不審者いるぞ”とか(苦笑)。それは各自で、お気を付けください。
あとはこの話で青森市の起こりなんかも触れてますが、もし不足なことがあればご教授下さると嬉しいです。僕なんかよりもお詳しい方はたくさんいらっしゃるはずですので。
そういえば10/31はハロウィンですね!意図して霊園の話をぶつけたわけじゃないですけど、何かのご縁?かもしれません。
三内霊園誕生秘話
もともと青森市、それ以前の青森町は江戸時代初期に建築された。善知鳥村と蜆貝村の二つを何本もの道で結び、”青森”の名を持って港町を作り上げた。あたかも京都の碁盤目状のように作られたのは偶然ではない。戦のない平和な時代へと移り、町人の力をもって藩を富ませようとしたのが主因だが……森山弥七郎をリーダーとして、青森町の建築を開始。配下には村井新助という者がおり、実は織田信長家臣で京都所司代の村井貞勝の子孫だった。彼の助言の元、京都風に区画が似たのは当然である。
町の構造として、南方に”寺町”を設置。いざとなれば南から攻めてくる敵への防壁としての役割を担った。それよりも南は田畑のみ広がる。寺の前門は北へ開き、後ろ側に墓所がある。普段町人が暮らしている分には墓は見えないように作られている。用事がある時だけ寺の門をくぐり、裏手にある墓所へと向かうのだ。
ここまではなにも問題はない。問題になったのは明治に入り、青森がさらなる発展をし始めてからである。
赤く囲まれた部分は、江戸時代までの青森町の範囲。下の左の四角は弘前藩御仮屋といい、青森町奉行所ともいう。ここで役人が座し、青森町を管理した。現在の青森県庁の位置である。下の右の四角は寺町の範囲。そこへ寺社を集中させているので、町人の心のよりどころ、信仰の対象であった。
明治になり、南へとどんどん町が広がる。そして新たな幹線道路の設置が決まった。
国道4号及び7号である。(=緑色のライン)
もともとそれぞれ奥州街道と羽州街道と呼ばれ、違うルートを通っていた。特に奥州街道は青森町の中央を通り、現青森駅の敷地を抜け、西にある油川町までつながる。羽州街道は青森町自体を通らず弘前より浪岡、鶴ヶ坂の山を越え、油川へ直結。油川から北へは松前街道が始まり、竜飛まで続く。向こうは北海道が待ち受ける。
このようであったので、油川町には物資が多く集まった。青森町以上にである。これから青森町を特に発展させるためには油川の存在が邪魔である。なので羽州街道を油川を通らせず青森へつなぐことにより、南西からの物資を青森へ集まるように仕向けた。……ということで、奥州街道=国道4号線と羽州街道=国道7号線はまっすぐ一本でつながる。
ところがである。国道の緑色のライン。あろうことか”寺町”をぶった切った。古い地図で確認したところ、確実に墓と被ってしまった。ちょうど戊辰戦争の戦死者を納めている範囲などが含まれる。位置的には青森市役所の真下までは至らない。手前のバス停留所よりも前方(=北側)偶然にも近くには青森空襲の慰霊碑、隣の柳町通りにも仏像は立っているが……。皆々何もしらずに車で通る。かつてこの道の下には墓があったなんて。
(赤ライン=国道4号、黄色ライン=柳町通り、緑の丸=戦死者墓)
そして時代が進み、生き残った?各寺の墓の存在が邪魔になった。江戸時代の南の境界を巻き込んで発展してしまったので、奇妙にも青森市のど真ん中に大きい墓所がある状態。他にも墓所は点在し、青森市のこれからの発展を阻害するだろうと。
昭和十三年(1938)、このような理由から三内霊園が設置された。青森市内にある墓所をできる限り一ヶ所へ集め、退いた後の空き地を有効活用しようと。他の理由として当時は土葬が多かったため、住民が多く暮らす土地に存在することは衛生面で心配されたのもある。戦時中にかぶったので一度は中断されたが、昭和二五年にほぼ移転が完了した。どれほどの規模の事業かは、下を参照されたし。
これより墓地の移転件数を記す。
昭和二二年より四か年の内、
常光寺 1950件
正覚寺 1566件
蓮心寺 1176件
蓮華寺 1154件
阿弥陀寺 528件
浪打墓地 393件
諏訪墓地 49件
香取墓地 19件
安定寺 10件
このうち8割以上が三内霊園へ集結。
裏を返せば……
それだけの土地が、浮いたのである。
例えば噂話かなんかで ”昔はここ墓が立ってたんだよー” とか ”あそこの病院、前は墓だったんだよ” とか冗談や嘘を広める人もいるだろう。
ただし青森市ではあり得る話だったのだ。
あなたの住んでいる場所、働いている会社はどうであろうか……。
次は方言版♪
もどもど青森市、その前の青森町は江戸時代初期に建築されだ。善知鳥村ど蜆貝村の二づば何本もの道で結んでろ、”青森”の名でかって港町ば作ったんだ。京都の碁盤目状さ似ちゃあばって偶然でね。戦のね平和な時代さ移り、町人の力にかって藩ば富ませっべどしたんた……森山弥七郎ばリーダーどすて、青森町の建築ば開始。配下さ村井新助という者いで、実は織田信長家臣で京都所司代の村井貞勝の子孫だった。彼の助言の元、京都風さなったんは当然だ。
町の構造どすて、南方さ”寺町”ば設置。いざどなれば南がら攻めてく敵への防壁どすての役割ば担った。それよりも南は田畑ばし広がる。寺の前門は北さ開き、後ろ側さ墓っこある。普段町人が暮らしちゃあ分には墓っこ見えねように作らぃでら。用事っこある時だけ寺の門ばぐぐり、裏手さある墓っこさ向かうんだ。
こごまでだば、なも問題はね。問題さなったのは明治さ入り、青森ががばっと発展ばす始めてからだ。
赤ぐ囲まぃだ部分は、江戸時代までの青森町の範囲。下の左の四角は弘前藩御仮屋どい、青森町奉行所ともいう。こごさ役人が座わってろ、青森町ば管理すた。現在の青森県庁の位置だ。下の右の四角は寺町の範囲。そこさ寺社ばたがらせちゃあはんで、町人の心のよりどころ、信仰の対象だった。
明治さなり、南へがっぱど町が広がる。そすて新だな幹線道路の設置が決まった。
国道4号及び7号だ。(=緑色のライン)
もどもどそれぞれ奥州街道と羽州街道ど呼ばぃ、違えルートば通っちゃあ。特に奥州街道は青森町の中ば通り、現青森駅の敷地ば抜け、西さある油川町までづながる。羽州街道は青森町自体ば通んねで弘前より浪岡、鶴ヶ坂の山ば越え、油川さ直結。油川から北さは松前街道が始まってろ、竜飛まで続く。向ごうは北海道が待ち受げる。
こうだったはんで、油川町さは物資がわったど集まった。青森町以上にだ。こぃがら青森町ばたげ発展させるんだば油川の存在が邪魔だ。だはんで羽州街道を油川ば通らせねで青森さつなぐことで、南西がらの物資ば青森さ集まるように仕向けた。……ということで、奥州街道=国道4号線ど羽州街道=国道7号線はまっすぐ一本でつながる。
だばって。国道の緑色のライン。がじゃめして”寺町”ばぶった切った。古え地図で確認すたら、確実に墓と被っちゃあ。ちょうど戊辰戦争の戦死者ば納めでら範囲などが含まぃる。位置的には青森市役所の真下まではね。手前のバス停留所よりも前方(=北側)偶然にも近ぐには青森空襲の慰霊碑、隣の柳町通りさも仏像は立ってらばって……。誰も何もすらねで車で通る。かづでこの道の下さ墓っこあったなんて。
(赤ライン=国道4号、黄色ライン=柳町通り、緑の丸=戦死者墓)
そすて時代進み、生ぎ残った?各寺の墓の存在が邪魔さなった。江戸時代の南の境界ば巻ぎ込んで発展すてまったはんで、奇妙にも青森市のど真ん中さでけえ墓所がある状態。他にも墓所はあってろ、青森市のこぃがらの発展ば阻害すべなと。
昭和十三年(1938)、こった理由から三内霊園が設置されだ。青森市内にある墓所ばでぎる限り一ヶ所さ集め、退いだ後の空き地ばいぐすべど。他の理由どすて当時は土葬が多かったはんで、住民がわったど暮らす土地さ存在すことは衛生面でへずねかった。戦時中さがぶったはんで一度は中断されだばって、昭和二五年にほぼ移転が完了すた。どった規模の事業がは、下ばめてけ。
こぃより墓地の移転件数ば記す。
昭和二二年より四が年の内、
常光寺 1950件
正覚寺 1566件
蓮心寺 1176件
蓮華寺 1154件
阿弥陀寺 528件
浪打墓地 393件
諏訪墓地 49件
香取墓地 19件
安定寺 10件
このうぢ8割以上三内霊園さ集結。
裏ば返せば……
そんきの土地っこ、浮いたんだ。
例えば噂話がなんかで ”昔はこごさ墓あったんだと” とが ”あそこの病院、前は墓だったんだよ” とが冗談や嘘ば広めるふともいるびょん。
だばって青森市ではあり得る話だったのだ。
おめらの住んでら場所、働いちゃあ会社はどうだべ……。
コネクトで方言訳を載せるの、次は正月かなー。
・