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ハロワ全職員クビ!というネーミングはインパクトありすぎるんですけど、事実だから仕方ないじゃないですか。当時は”青森市職業紹介所”という名前が正式名称ですが、”ハロワ”のほうが意味が通りますので、こういった題名にしてあります。
→→前置きはいらないから、早く読ませてよという方はこちら←←
いつもの通り最後に方言版もつけておきますが……と言いますか、青森市民の方ですでにこのお話を読んだことある人いらっしゃいますよね?思い出して下さった方はいますか??
思い起こせば2018年10月の青森市議会議員選挙。yahooなどの検索エンジンで選挙の事を調べると、当時なぜか上位6番目ぐらいに原作である”青森市のありえない話”が表示されてしまうという事態が起こっていたのです。結局のところ話の内容は明治から昭和初期の話を四編収録しているだけなので、いまの選挙を取り扱っているわけではありませんでした。それもそのはず、僕のその話以外はすべて選挙関連のニュース記事で占められていましたし。でもまあ……異彩を放っていたでしょうね(苦笑)。なんか違うやつがあるぞと。案の定、三話目である ”ハロワ全職員クビ騒動” 目掛けてアクセスが集中したのです。何度も言いますが、今回の選挙の事を一切書いていなくてもです。
選挙公示日から、さっそくアクセスが集中。
そして10/28(日)が投開票でして、公示日以上の賑わいを見せました。
でも見たところで選挙結果は書いてません!その時に読まれた方はけっこういらっしゃるのではないかと……?データとして残っていないのが残念ですが、夜の7時半ぐらいからアクセスが急増しだしまして、投票終了時間が8時。ピークが9時~10時。
でも選挙結果は書いてません!残念ながら。
でもでも、これでアクセスが高い状態は終わるかなと思っていたのですが!!まだ続きました。公示日が第一波、投開票日が第二波だとすると、……まさかの第三波が出現いたしました。まさしくテレビ効果というべきか。
主に11/4から11/6の期間が第三波です。現実世界の市議会で色々とありましたから……(汗)
ハロワ全職員クビ騒動
昭和九年(1934)の青森市長選で、加賀秀雄が初当選を果たした。そのとき彼は市議会議長であって、かつて31歳にして最年少で市会議員当選を果たした注目株だった。ところがこのたび与党会派を二分させたうえに、盟友だった北山一郎前市長を裏切って出馬。
”市会議長就任後一年有半、大過なしに今日に至つたことは議員諸君の後援と、市民各位の熱誠なる声援の賜物で、今回青森市長の改選に際し、同志多数の切なる勧めで、愈々競争場裡に立つことになつた。併し永年の間、同志として提携して来た現市長と戦を交いることは私情において忍びないものがあるので慎重熟慮したが、公的立場から決意するに至つたから、之も忍んで戴かねばならないものと考える”
一方で野党勢力は千葉伝蔵を擁立。三つ巴の争いになった。当時の市長選は市議会議員による投票であったので、市民はなにもできず固唾をのんで見守った。結果は……
十二票 加賀秀雄 当選
十一票 北山一郎
十一票 千葉伝蔵
……そして、無効票が二票。
当然、この二票の扱いで勝敗が変わる。異議の申し立ても当然あった。だが加賀派はわざと知らんぷり。加賀秀雄はいまだ”議長”であるという特権を用いて、市議会の散会を宣言した。申し立てを受け付けなかった。混乱の渦は収まらない。
このままでは、市政が成り立たぬ。市政にあるまじき事態と憂えた青森県は、この投票を取り消すことに決定。上から強制的に命令を下す。青森県知事はなるべく平和裏に新市長を決めたいと思い、加賀・北山・千葉の三者を招集。ただし三派三様の主張があり、まとめることは困難を極めた。
加賀派……加賀秀雄を市長。千葉伝蔵を議長。北山一郎には莫大な退職金を与えよう。
北山派……事実上の最高点はわれらが北山一郎。北山こそ市長であるべきだ。
千葉派……こうなったからには、三人ともあきらめる。三氏を除く適当な人物を市長にしよう。
その後も県知事のもと何度も話し合いがもたれたが、容易に決着せず。そのうちに三者ともあきらめるムードに傾き、新候補者を擁立することに決まった。だが北山派は不満で、裏に隠れて千葉派と交渉。決まりかけた新候補者を蹴って、議員らだけで決めなおそうと。両派ともにほぼ意見の一致をみたので北山派は県知事へ言った。
”知事は市長問題から手を引いてほしい”
これに県知事は大激怒。せっかくここまでまとめてやったのに、この態度は何様と。
結果として県知事から嫌われた北山派は孤立。残った加賀派と千葉派の話し合いによって、加賀秀雄市長と千葉伝蔵議長で正式決定した。ここまで落ち着くのに三か月かかり、市政は完全にSTOP。
ここから加賀秀雄の伝説は始まる……。(すでに始まっている感はあるが)
まず手始めに議員の歳費値上げを行おうとした。応援してくれた議員仲間へのねぎらいである。だが市民の目からもこれは明らかで、当然の如く猛反対された。加えて嫌いな人物はどんな役職でもクビにして、加賀の天下を築こうと企んだ。
こうであったので、一気に支持率は低下。いつしか千葉派と北山派が手を結び、加賀市長の追い落としにかかる。これで焦ったのは加賀市長。どうすれば支持を回復できようか。
考え出したのはあろうことか……
ハロワ全職員を、クビにすることだった。
当然ハローワークという名称は現代のものなので、その頃は青森市職業紹介所と言った。もともと市民はこの組織に不満があり、あまり仕事をしていないのに給料をもらっていた。それはそれで事実で、早勤や宿直をしていないのに該当する手当を受けている。すでに明るみにでていたので、それぞれの職員は反省の意を示していたのだが、彼らをクビにすることで自分への支持を回復させようと考えたのだ。
こうしてハロワ全職員9名を、昭和十年(1935)十二月二六日付で免職処分とした。
これでほぼすべての者が敵にまわった。同派からもやりすぎだとの声を受け、今後の業務のことも一切考えていない、傍若無人な行いだとそしりを受けた。他の法案でも相当ずさんなものを出してしまい、窮地にたたさえる。
そして……
昭和十一年(1936)、加賀秀雄市長は検挙された。三月九日午後九時五十分、東京から青森へ戻る途中、尻内駅(現在の八戸駅)で検挙拘束。八戸署へ連行され、市長は現金授受の不正を暴露するに至る。並びに前後して青森市議会議員計十一名も検挙され、全議員三六名中約3割が逮捕されてしまった。
青森の恥さらし。ここに極まれり。
青森市議会は解散。市長も選び直し。
ここで青森県知事は声明を出した。
”私が市民に特に御願ひしたいのは、単に自己の一票を正しく行使すると言ふ許りではなく、公正廉直の士は自ら立つて市政に参画せらんことである。即ち選挙民が如何に優良なる議員を選ばんとしても、候補者に其の人を得なければ何うすることも出来ぬ。心ある選挙民は涙を呑んで棄権するか、或は不満足なる候補者に投票するより致方がなくなる”
以下、方言版♪
昭和九年(1934)の青森市長選で、加賀秀雄が初めて受かったんだと。そのどぎ彼は市議会議長でれ、31歳にすて最年少で市会議員さ受かった注目株だったんだど。だばって与党会派ばがじゃめてろ、盟友だった北山一郎前市長ば裏切って出てまった。
”市会議長就任後一年有半、なんもねく今日さ至ったごどは議員諸君の後援ど、市民各位の熱誠なる声援の賜物で、今回青森市長の改選だとこで、同志多数がたんげ勧めるはんで、愈々競争場裡さ立つごどさなった。永え間、同志どすて仲いがった現市長ど戦ばすのはわーの情さ来はんでまでえに深く考えたばって、公的立場がら決意することさしたがら、之も忍んで戴がねばまねなど”
一方で野党勢力は千葉伝蔵ば擁立。三づ巴の争いさなった。当時の市長選は市議会議員による投票だったはんで、市民はなんもでぎねで固唾っこのんで見守った。結果は……
十二票 加賀秀雄 当選
十一票 北山一郎
十一票 千葉伝蔵
……んでれ、無効票二票。
当然、この二票の扱いで勝敗が変わってまる。あらげて当然でれ。だばって加賀派はわんじゃと知らねってら。加賀秀雄はまんだ”議長”であるどいう特権ば用いてろ、市議会の散会ばしてまった。申す立てば受け付けねがった。みそくたもねえ。
このままだば、市政が成り立だね。市政さあるまずき事態どへずねくしてらった青森県は、この投票ばねくしてまった。上がらばしらっと命令ば下す。青森県知事はなるべぐ平和裏に新市長ば決めてえなと思い、加賀・北山・千葉の三者ば招集。ただす三派三様の主張があってろ、まとまんねえんだ。
加賀派……加賀秀雄ば市長。千葉伝蔵ば議長。北山一郎さは莫大な退職金ばけるべ。
北山派……事実上の最高点はわぃらが北山一郎。北山ごそ市長だべさ。
千葉派……こうなったはんで、三人どもあぎらめろ。三氏でねえいい人物ば市長さすべ。
その後も県知事のもと何度も話す合いしたばって、まんず決まんねんでろ。そのうぢに三者とも嫌さなって、新候補者ば擁立することさ決まった。だばって北山派は不満で、裏さ隠れで千葉派ど交渉。決まりかけちゃあ新候補者ば蹴って、議員らだげで決めなおすべと。両派ともにほぼ意見っこ一致ばめたので北山派は県知事さしゃべった。
”知事は市長問題から手ば引いてけれ”
これさ県知事は大激怒。せっかぐここまでまどめたんずに、この態度はなんなんだばと。
結果とすて県知事から嫌わぃだ北山派は孤立。残った加賀派と千葉派の話す合いでかって、加賀秀雄市長と千葉伝蔵議長で正式決定すた。ここまで落ち着くんに三々月ががってろ、市政は完全にSTOP。
こごがら加賀秀雄の伝説は始まる……。(すでに始まっちゃあばって)
まず手始めに議員の歳費値上げばすべと。応援すてけてら議員仲間さのねぎらいだ。だばって市民の目がらもこぃは明らがで、わったど猛反対さぃだ。加えで嫌えな人物はどった役職でもクビさすて、加賀の天下ば築くべと企んだ。
こうだったはんで、一気に支持率は低下。なんが千葉派ど北山派で手ば結んでろ、加賀市長の追い落とすさかがる。こぃでうぬうぬどすのは加賀市長。どうすば支持っこ戻るべが。
考え出すたのは、まんずなあ……
ハロワ全職員ば、クビさすことだった。
当然ハローワークという名称は現代のだはんで、その頃は青森市職業紹介所だ。もどもど市民はこの組織さ不満あってろ、あんめえ仕事ばすてねのに給料ばもらっちゃあ。それはそれで事実でれ、早勤や宿直ばすてねのに該当する手当ば受けてら。すでに明るみにででたはんで、それぞれの職員は反省の意ば示すてたんだばって、彼らばクビさすごどで自分への支持ば戻すべと考えだのだ。
こうすてハロワ全職員9名ば、昭和十年(1935)十二月二六日付で免職処分とすた。
こぃでほぼすべでの者っこ敵さまわった。同派がらもやりすぎだどの声ば受け、今後の業務のこともなんも考えでね、傍若無人な行いだどしゃべらえで。他の法案でもたんげいぐねもんば出すてまり、窮地さたたさえる。
そすて……
昭和十一年(1936)、加賀秀雄市長は検挙されだ。三月九日午後九時五十分、東京から青森さ戻る途中、尻内駅(現在の八戸駅)で検挙拘束。八戸署さつでえかれ、市長は現金授受の不正ば暴露してまった。並びに前後すて青森市議会議員計十一名も検挙され、全議員三六名中約3割逮捕されでまった。
青森の恥さらす。こごさ極まれり。
青森市議会は解散。市長も選び直し。
ここで青森県知事は声っこ出すた。
”わーが市民さまでに御願ひすてえのは、単に自己の一票ば正すく行使するどしゃべる許りでねぐ、公正廉直の士は自ら立って市政さ参画してけれど。即ぢ選挙民如何さ優良なる議員ば選ばんとすても、候補者さ其のふといねば何もするごど出来ね。心ある選挙民は涙ば呑んで棄権するか、或は不満足なる候補者さ投票するより致方がねくなる”
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