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多田の思惑
5-1 侵攻開始
“ニオイシダ”を踏みつける。
安東軍は旧暦六月二五日早朝に大館の扇田城より出陣。先陣は総勢千五百。大将は比山六郎、参謀格として滝本重行、目付として浅利実義(浅利氏当主である浅利勝頼の異母弟)の以上千兵と、別動隊として遅れて北畠顕則率いる旧浪岡勢の五百が進む。六時間ほどかけて矢立峠を北へ通り抜け、最初に津刈砦(現、碇ヶ関湯ノ沢)に襲いかかった。
天気は晴れ渡り、赤い狼煙は高々と上げられた。砦に設けられている石垣の狭間などもはっきりと見える。安東の兵らは石と石の間に手を伸ばし、無理やりよじ登って砦へ入ろうとする。頭上から矢が降ってくるものの、所詮籠るのは百に行くか行かないか程度。簡素な門の木戸も運ばれてきた丸太であっという間に砕け散る。中の者は襲われたら逃げるように指示をされていたのだろうか、必死で争おうとすることなく、後ろの生い茂る山の方へと逃げるのだ。
砦の真ん中にある館の周りは歩きやすいように敷石で詰められているが、一応は津軽領内に出入りする民が挨拶にくることもあったので見栄えよく恰好をつけたのだろう。そこを安東の兵らが意気揚々と踏みつけるのだ。隙間に生えるニオイシダなどは見向きもされない。安東軍にとってこの津刈の砦はそのような容易い存在。ここは人の動きを監視する役目程度しかないので、防御性というのも薄かった。防御という意味では後方にある唐牛や三々目内が担うところ。安東の軍勢が迫ってきたことを慌てて伝えに行くのだ。
夜にもならないうちに安東軍は津刈を制圧。翌二六日は北にある三笠山へと兵をすすめ、さらに北の古懸の不動尊に本陣を設けた。かつて鎌倉時代に執権北条時頼が奉納したとされるこの場所は祈願所として由緒正しく、地元民に信仰される。滝本は不動尊の前に立ち……己が津軽の地に帰ってきたことを感慨深く思うのだ。
5-2 ひとしずく
こちら津軽古懸の不動明王は座っておはす珍しい仏様。それも汗をかきながら。誰も水をかけたわけではない。もちろんこの辺りは川沿いの細長い平野ながら相当な高地でもあるので、霧が立つと木造建築物の内側などに水滴が生ずることもあろう。それをわけもわからず当時の人が“汗”と見誤るのは仕方ないこと。汗は手に持つ灯に照らされて光る。
そして滝本は問うてしまった、ここの寺の住職に。……住職は恐る恐る答える。少しだけ青ざめながら。
「はい。……こちらの方が汗をかいておられますと、津軽の地に不吉なことが起きると……。」
顔色を窺いながら、その場から静かに後ずさりして帰ろうとする。”士気が下がる”とでも言われ、罰を受けそうな気がしたからだ。だがそんな想いと裏腹に滝本は言う。
「ならば、我らがその災難から救ってやらねば。為信を倒し、我らの治めるところとする。」
そして駄々広い仏殿の中に控える兵らに向けて同じ言葉を申すのだ。兵らも同調し、“おお”と威勢をあげる。
……彼らとは別に安東軍大将の比山は滝本の隣で胡坐をかいているままだ。頭上の髪の毛がいかにも痒そうで、手櫛をいれるとパラパラとフケが舞い落ちる。先ほどまで兜をかぶっており蒸し暑かったので痒さはなおさらだった。ある程度かき終わると相当な快感を得たようで気持ちも晴れやかだ。
一方で目付役の浅利は落ち着いた様で見ている。なるほど滝本は大変威勢よく、兵らの心も彼はしっかりとつかめている。ただし比山は自分のペースというものがあり、周りがどう動こうが乗せられることは無い。ある意味でどういう事態が起ころうとも動じないだろうが、時には場外れな事をしでかすかもしれぬ。滝本と比山の間で火種になるか。
ただし我ら安東軍が勝ち進みさえすれば問題にはならぬこと。そう考え浅利は目をつむる。
5-3 順風満帆
さてと滝本は話す向きを比山と浅利の両人へと変えた。ここからはまともな軍議である。
「ここまでは順調そのもの。津刈にてどれほどの抵抗を受けるかと思うたが、全くであった。」
他の二人は頷く。比山は大将らしく滝本の働きを褒め称え、次の言を促す。
「次に待ち構えるのは唐牛館、さらに蔵館、三々目内館と続きます。この三つを制した先にはひたすらに広い津軽平野が待ち構えており、為信のいる堀越もすぐそばです。」
……今羽街道(現、羽州街道。国道七号線)を安東軍は北へ進むわけだが、津軽軍と初めにぶつかるのは津刈の砦だった。後にこの辺りで碇ケ関と呼ばれる関所が置かれるが、これは江戸時代になってからの話。南部側の鹿角へも坂梨峠を通じて行き来できる交通の要所である。安東側の大館扇田城から攻め入るには矢立峠を越える必要があり、大館から津刈まで20㎞の内、細い山道が7㎞ほど占める。安東軍を徹底的に防ぐならばこの場所に軍を配置して交戦すべきところを……何もなかった。罠一つない。津刈砦の者は無様に負けただけ。
津軽側の腹の内を明かすと、津刈はあまりにも南すぎてそちらに比重を置いてしまうと、別方面から敵兵に攻められても対応できないこと。日本海ルートあるいは南部軍の侵攻も頭に入れておかねばならぬ。とにかく安東軍は強い抵抗を受けずに津軽の南端を抑えてしまった。あとは平川沿いに北へと兵を進めるだけ。細すぎる山道というものはないし、谷の真ん中の平野を川伝いに、所々にある拠点を攻め落としていく。
しかもある程度先の戦の結果は知れていた。これが三人の雰囲気をよくさせる原因だ。険しさは一切なく、安東は勝つべくして勝つのだと信じ切っている。
……これを当事者に聞かせてみたら、ぶん殴りたくもなるかもしれぬ。
5-4 内通
安東軍が駐留している古懸不動尊より北西2㎞先に唐牛館がある。山の裾野にある津軽方の拠点であり、館を囲むように平川が蛇行している要塞でもある。ただし館主は……唐牛氏と申し、浪岡北畠の管領家であった多田氏の分家である。形式的には為信の傀儡政権である水木御所に属する。
津軽・安東双方に旧浪岡北畠の面々が散らばっている現状に、安東についている旧浪岡の石堂頼久は危惧していた。もともと同じ志を持った者らである。意見の対立はあれど、結果的に離れ離れになるに至ったが、仲間同士血みどろに相争ってはならぬ。今や津軽軍と安東軍は戦争状態へと突入し、目前には唐牛館。彼はれっきとした北畠系の家柄ではないか。ここが無事に降伏しても、先に進めば多田本家の三々目内館がある。……ちょうど多田家は津軽平野へと入るための経路上に領地を占めている。多田氏が為信に従っている以上は……安東は多田を征せなくてはならぬ。
そこで石堂は戦になる直前まで津軽に潜入して裏交渉を続けた。多田氏へはもちろんのこと、他の諸氏にも接触したらしい。そして水木御所へも。
しかしながら水木御所は浪岡御所の後継であるが所詮は権威だけの存在で、為信によって手足をもがれている。持つ力もわずかなものであるし、踏ん切りというのもつきにくい。それでも水木御所の一角である多田氏が安東に付くとなれば、ほぼ無傷で安東軍は津軽平野へと駒を進めることができる。為信不利であるし、水木御所も考えざるを得まい。
そして……多田氏当主である多田秀綱。自らの家を残すため、難しい決断を下した。石堂は真夜中に唐牛館を訪ね、多田氏の主要な者らと密談をするのだが……もともと一か月前に決まっている。予定通り唐牛館はある程度戦うふりをした後、中の者は退散する。安東軍は三々目内館をわざと素通りをする。
5-5 窮する
多田は泣き面で感情のすべてを表に出して、石堂の体を懸命に揺さぶるのだ。すると部屋に置く皿上のロウソクは思わず落ちてしまう。慌てて家来衆が板間に燃え広がらぬように素手で拾い上げる。とても熱いが……館に燃え広がるよりかはましだ。
「このたび我ら多田は、難しい決断をした。石堂殿、わかっていてほしい。」
ほぼ完全なる暗闇であるので、相手の表情はわからぬ。しかし想像は十分につく。
「わかっている。安東の兵を水木様の兵にぶつけぬことだな。」
多田はいっそうのこと、石堂の体を前後に強く揺さぶった。
「本当か、本当なのか。」
「ああ、本当だ。」
「水木様の袂に私の息子である玄蕃もいる。私は安東に、玄蕃は為信に付く羽目になった。間違っても水木に矢の一本も放ってくれぬな。」
多田は津軽より安東へと裏切る。これに間違いはない。ただし条件は演技つきである。あからさまに寝返ってしまうと息子の玄蕃の立場を悪くする。津軽諸氏の陣中にいるのだから、父親が寝返ったとなると当然ながら疑いの目で見られる。これは水木御所全体にもいえることで、代表的な北畠系の一家が裏切るのだから、水木全体で安東方へ通じているのではないかと勘繰られてしまう。すべての企みが水泡に帰す。
そしてもうひとつ、多田は石堂へ伏せていることがある。これはすでにありえないことだろうが……安東が為信に負けてしまった場合のことだ。その時は多田秀綱自らが自刃して……玄蕃は為信に忠誠を尽くしたわけだから多田家は生き残る。領地は減らされようが、家と家来らの居場所はある。
そこまで考えて……多田はさらに病む。もともと精神を患っていたのがさらに悪くなり、一応は石堂に対して平静を保って話しているつもりだが、やはり普通ではない。揺さぶる頻度が増えて、無理やり家来衆に引きはがされる始末。
虐殺
5-6 示し合わせ
旧暦六月二七日。安東軍は古懸不動尊より出立し、北西2㎞先の唐牛館を囲んだ。田植え後の季節ではあるが朝に一面霧がかかり、やはり海遠く山岳地帯に囲まれている場所ということを印象付けた。
唐牛館の守将は唐牛氏であるが、前々からの合意通り戦さの真似事をするだけである。あからさまに裏切った感じをださずに、ある程度争った風に見せておいて夜には闇に隠れて後方へと逃げる。すでに多田秀綱など昨晩密談を持った多くの者らは館を離れて三々目内へ退いていた。
……霧が晴れてきた頃合いを見計らい、安東軍は唐牛館へと向けて矢を一斉に放った。百人の引手が、事前に伝えられていた箇所めがけて放つ。何百本もの矢が館の柵を越えて向こう側に降り注ぐのだが、当然ながらその場所に敵兵はいないので反応は一切ない。安東軍はある程度放ち終わると、館から少しだけ離れる。今度は館の内側から何百もの矢がこちら側へと飛んでくる。……きっと矢は同じものであろう。放ったものを放ちかえしているだけだ。とんだ茶番であるし……もしここで命を落とした者がいるならば、とてつもなく不運な星に生まれたのであろう。
双方ともにしっかりと昼餉を取り、日が傾きはじめるとまた同じようなごっこ遊びをし戦さを終えた。
完全に日が西の山々に沈みきると、安東軍は唐牛館を囲むのをやめて再び古懸不動尊へと戻る。そのうちに……唐牛館の城兵はすべて館より出でて多田本家の治める三々目内へと向かうのだ。それもゆっくりと焦ることもなく。兵糧や他に役立つであろう物は持ち出されずに館にそのまま残っている。日が明けて安東軍は唐牛館へ無血のうちに入り、それらをことごとく自らの物とした。
ただし……一部将兵は多田と唐牛のやり方に反発し、近くの蔵舘へ向かいこの有様を密告。蔵舘の兵らは彼らと共に安東軍の侵攻を待ち受ける。
5-7 暇つぶし
蔵舘は小高い台地の上にある。南を平川、北に大館山が迫る。周囲は土地が開け、敵がどのように進んでくるか一目瞭然である。しかしそのような場所ながらもったいないことに大規模な守備施設とはなれず、所詮は地方のしがない拠点であるので、大軍勢で押し寄せられたらどうなるかわからぬ。
そこで蔵舘より後方の堀越に向けて援軍要請の密使を送ったのだが、当然ながら安東と多田はこの動きを予期できていたので、密使を山中で切り捨てるのだ。なので為信の援軍が来るはずもなく、多田や唐牛も援軍を求めるはずがない。兵は一向にやってこない。為信としても安東が勢いづいている段階では直接に当たらず、少しでも勢いが削がれたところで出陣する方針だった。そこで経路上の拠点には、ある程度争ったのちに退却せよとの命を事前にだしていた。
ただし蔵舘は事情が違う。逃れてきた兵らより唐牛と多田の三々目内がその実、安東に与しているという話。これでは勢いそのままに安東軍は津軽平野へ突入するし、これはとてもじゃないが見過ごせない。すっかり四方ともに囲まれているし、援軍がなければ自分らも退く道をもたらすことができぬ。
これでは、討死するほかない。
さて安東としても唐牛と三々目内が通じている以上は間に挟まれている蔵舘は赤子も同然。理を説いて屈服させてもよかった。大将の比山や目付の浅利は実際にそのつもりでいた。しかしあの滝本が……。
「為信の兵は屈強で、なんだかんだで運が強い。いざ堀越と大浦を囲んだ時に、何がもとで崩されるかわかったものではない。」
比山は首をかしげ、滝本が何を言いたいのかまだ理解できない。滝本は少しだけ蔑み、後には誇らしげに比山へと言う。
「ここ蔵舘で我らの行った調練がうまくいくかどうか試してみたいと思う。ちょうど……安東様自らが率いる本隊の到着が遅れているし……よき時間つぶしにもなろう。生ぬるい手は恨みを持った者が生き残り、後々に禍根を残す。」
5-8 覚悟を決める
旧暦六月二九日。雨は昨晩より激しく降り始め、早朝から予定されていた蔵舘への本格的な行軍は中止された。しかし古懸不動尊より前方の唐牛館へ本営は移されたし、別動隊として北畠勢は唐牛館より西方にある大安国寺へと着陣した。ちなみにこの寺の名前がなまって大鰐という地名が生まれたという言い伝えもあるが、本当かどうか定かではない。後に津軽藩成立後に蔵舘の神岡山へと移り、名を高伯寺と変わり、さらに明治になり大円寺となるのは別の話。こうして唐牛と大安国寺併せ千五百兵は雨の中、戦さ前の最後の休息を取ったのである。
そして午後になり雨の勢いはおさまった。小雨になったし雲の色も真黒な色から白っぽいものに変わったので、安東軍は4㎞を蔵舘に向けて侵攻。平川を挟んで南側には大将の比山勢が五百、西側の宿河原というところに浅利勢が二百、北畠勢五百は後方の長峰に着陣。そして滝本はというと……残り三百を率いて蔵舘につながる尾根筋より進もうと、山の木々に身を隠す。
籠る蔵舘の兵らにしても台地につながる尾根筋のみ唯一見晴らしが悪いので、特に警戒をしていた。高所から低いところへ矢を放つのは防衛の意味で有利だが、そこだけ同じ手が使えぬ。一応は尾根筋を絶つように土堀を設けているが、結局は敵兵の出方による。……こんなことを考えたところで安東軍は圧倒的な兵力を持っているし、蔵舘は三百に過ぎない。援軍が来ない以上はすでに死兵と化し……こうなれば一人でも多く道ずれに殺すだけだ。
そして今にも日が沈むかというときに、滝本の三百は尾根筋より攻め入った。最初は互いに矢を放ちあい、土堀を境に互いに近づけぬ。そのうち南側より平川を渡って比山勢が正門へと迫る。浅利勢も示し合わせたように動き出す。蔵舘の兵らはというと彼らに対し台地の高いところから容赦なく矢を射かけるのだ。
5-9 練習相手
傾斜のある丘陵を、下には土堀を、上には塀を四方に張り巡らしている。安東方の比山勢と浅利勢は攻めあぐね、無理やり登ろうにも傷つくだけであるし、次第に恐怖感が芽生えてきた。日も完全に沈み、代わりに月が東の高い山々より昇ってくる。鏃で心臓を射抜かれたもの多数おり、こちらから射かけようにも距離が足りず、さらには先日の大雨もあるので登るにも足場が悪い。
一方で尾根筋より攻めていた滝本勢。土堀を境に敵へ矢を放ちあっていた兵らであったが、少し蔵舘ののら兵数が増えたかなとも思える。……ということは別方向から攻めている軍の勢いが弱まったから、こちらに兵を回しているのだなと考えた。事実それは的中していた。
そこで今こそ調練の成果を示してやろうと滝本は、奥手より弓手の専門部隊を前へ回した。そして増えた者ら合わせて一網打尽にせよと。彼らは滝本の意を受け、懸命に励んできた屈強の武者らである。津軽の地に戻ろうと心に決め、為信に奪われた所領を取り戻さんとここにいる。これまでの成果を見せる時だ。手元で弓に矢を挟み、そのまま顔の横に上げ、前後に持ち手と弦を力いっぱい引き離し……敵兵めがけて放つのだ。ギリリと音が鳴り、限界だなと思った瞬間ならば誰よりも矢は高く飛ぶ。斜め45度の方向へ。土堀はもちろんのこと、敵の弓手の頭上を飛び越えて後ろで屯している奴らに刺さる。一番遠いもので40mも飛んだかもしれない。まさかこちらにも飛んでくるなんてと蔵舘の者は動揺し、前にいる弓手も後ろの慌てようが目に入ってしまったので、引く手を思わず休めてしまった。そのうち暗闇に混じって土堀より滝本の突入部隊が迫るのだ。急ぎ奴らに向けて弓というより刀を抜いて応戦する。
……勢いは滝本にあり、全軍が堀のその先へなだれ込むのだ。
5-10 滅亡
蔵舘の兵は、死兵である。
助けにやってくる者はなく、ただ敵兵に囲まれて死にゆくだけ。もし生きたいならば、千五百の敵兵を三百で滅ぼさなければならない。それができないとしても一人でも多くを道連れに……とは思うものの、目の前の土堀を乗り越えて攻め寄せる安東軍も相当な強さ。それもそのはず、特に滝本の率いる手勢は故郷の土地を捨て秋田にて調練に励んだもの等である。為信に奪われた所領を取り戻すため、すべての時間を滝本に捧げ、滝本もそれにこたえて徹底的に鍛えさせた。蔵舘の兵のように片手間で農業をやっているのとは違う、質がまったく異なるものだ。だからこそいくら蔵舘の兵が死兵となり奮起しようが、滝本の兵の前では斬られていくだけである。
蔵舘の兵が弓を引いて30m飛ばすところを滝本らは40mも飛ばすし、槍や刀の腕前だって速さが断然違う。滝本勢は尾根筋の東門に迫ったので、守る兵らは慌てて門に鍵をかけようとした。だが滝本勢はそんな暇も与えずに門番を斬り殺し、館内へと一気になだれ込むのだ。
他の場所でもこの動揺は伝わり、外側に詰めていた安東方の比山勢と浅利勢、そして後ろにいた北畠勢も一気に蔵舘へと攻め寄せた。傾斜のある丘陵を駆け上がるのだが、今度はまったく矢が降りかかってこない。難なく塀の袂まで身を近づけ、塀をよじ登って館のテリトリーへと突入する。あとはバッサバッサと切り殺していくだけ。
……今更降伏など受けつけぬ。これは為信に対しての模擬戦である。二度と息を吹き返さぬように手を打たねばならない。どんなに女や子供が泣こうとも、年寄りが苦しそうでもその場にいる限りは“敵”でしかない。“敵”になりたくなければ籠らなければよい。阿鼻叫喚の至る所、安東軍の兵らの鎧は赤く染められてゆき、いつしか雨が降り始めるとその穢れこそ取れるが、今度は何もなかった地面が染められていく。どこへ逃げようが隠れようが、見つけ出し心の音を止める。生かせば女は恨み言を語り継ぐし、子供はその言葉を聞いて育てられる。ならば皮肉な連鎖をここで断ち切るしかあるまい。館の奥でうずくまっておびえている彼女らを……滝本は容赦なく殺した。滝本に従う兵らも……己らの目的を果たすため本心を押し殺して刀を刺す。
こうして蔵舘に籠る三百の兵や他も含めて、すべて滅ぼされた。
これより安東軍は目の前に広がる津軽平野へと侵攻していくのだが、どの資料にもこれより先のことは書かれていても、矢立峠から大鰐地域へ至るまでの記載がすっぽり抜けている。これはおそらく全体を通して水木御所とそれに連なる北畠勢の記載も薄いものにしている中、ここの箇所を語ると多田氏の内通の話など北畠側の話が色濃く出てしまうので、意図的に消したからかもしれない。津軽の話は”為信本位”でなくてはならない。
この悲劇は、あくまで多田氏が内通したことにより起こりえたであろう想像の話である。
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