アオモリコネクト特派員のかんからです。
***この記事は完全なるおふざけです。本気で考えた部分はありますが、大半はノリで書いたモノとお考え下さい***
***かんからさんは夜勤明けで寝ようとしましたが、間違ってコーヒーを飲んでしまいました。なので眠れなくなってしまいました。完全に深夜のノリ?みたいな状態で書いていくので、温かい目で見守ってください。赦して下さい***
時は昭和20年(1945)、8月15日。
多くの戦死者を出した第二次世界大戦は、日本の降伏によって幕を下ろしました。終戦後は通称GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下、ほぼほぼアメリカの管轄に置かれました。
しかしこの”8月15日”というタイミングで行われたポツダム宣言の受諾。一週間後にずれていただけで、日本はドイツや朝鮮半島のように分割統治されていた可能性があると言います。
上の地図でもわかる通り、もし分割統治されていれば……東京は4か国による統治なので、ベルリンの壁みたいなのが出来ていたのかもしれません。四国地方だけ公用語が中国語になっていたかもしれません(中国地方じゃなくて!)。そして青森を含む東北地方・北海道はソ連統治下に入っていた可能性があるそうです。
もし分割された土地がそれぞれ独立していたら……
その場合の青森の立ち位置はどうなっていたか?僕なりの独断と偏見で考えてみました。
首都は札幌。でもトップは、津軽人。
人口の多さでいえば、首都は仙台か札幌の二択かなと考えました。でもソ連領へのアクセスの良さを考えれば、札幌が妥当だと思います。それに北海道は、まだ開拓し尽くされていない広大な土地を持ちます。ロシア人が移住するにも持って来いです。
ですがトップが津軽人とは、これ如何に?
(ちゃんと根拠はありますからね。弱いかもですけど)
明治15年(1882)~昭和46年(1971)
日本の外交官・政治家。所属政党は緑風会。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任。大阪府生まれ。弘前藩士、沖縄県警察部長・田中坤六の二男として生まれ、外交官・佐藤愛麿の養子となる。
↑↑このお方がトップに立っていた可能性があるのではないかと。
なぜなら終戦時、ソビエト連邦首都のモスクワで駐ソビエト連邦特命全権大使として詰めていました。ソ連による分割統治されていたら、この人を説得してトップに据えていた可能性があるのではないかと考えました。(子孫の方、勝手に取り上げてごめんなさい)
首都は札幌。でも中枢を占めるのは、津軽人。
彼が名乗った佐藤家自体は、明治維新の前まで佐藤清衛(英馬)という人物が津軽藩の勘定奉行を務めていました。彼の養子である佐藤愛麿は津軽藩の家老山中家の出身で、外交官で諸国を歴任。東奥義塾の出身者でもあります。そして佐藤尚武自身は大阪の生まれながら、津軽藩士である田中家の出身。津軽藩になじみのある人物と言えます。
トップが津軽人となれば、信頼できる人を集めた場合、傾向として津軽藩にルーツのある者を多く採用するのではないかと考えました。こうして政府の中枢を津軽人が担うことになります……。
ただし終戦直後まで旧南部藩にルーツ(本籍)を持つ者で、首相になった軍人が多かったので…占領軍が当てつけでそうさせた可能性もあるかもしれません。(斎藤実、米内光政、東条英機)
でも平成の世になれば……きっと日本は一つに。
ソビエト連邦崩壊は平成3年(1991)の12月25日に起こりました。ベルリンの壁崩壊は平成元年(1989)の11月10日に発生しました。きっとその前後で分割統治されてきた日本も一つにまとまるはず……。その際にどういったことが考えうるでしょうか?
正解に近いのは、ドイツ再統一の方式をとることかと思います。
でももし戦争になってしまったら、どうでしょう??
まさかの 津軽 vs 南部戦争 の再現
これまで政府の中枢で要職を占めてきた津軽人に対し、南部人は不満をためていた……そこで八戸ならびに宮古辺りに通称:東京軍を引き入れ、直接的な軍事行動が発生した可能性があります。主戦場は野辺地です。あろうことか、100年前の歴史を繰り返してしまいました。。。
これらを考えてみると……日本が一つでよかった!分割統治されなくてよかった!!
平和でよかった……。