【How many Matsumori?】松森はたくさん!そして “青森” というネーミング誕生のきっかけも、まさかの……?

アオモリコネクト特派員のかんからです。

↑↑この記事の続編なのですが……↑↑

 

前回の復習。

 

左の地図(昭和10年)では国道の北に松森があり、

右の地図(現在)は国道の南に松森があります。

 

あれ?同じ青森市に松森が二ヵ所もある……。

なぜ??

途中で移ったの???

 

もちろんこれは目の錯覚などではなく、現実世界での話です。

 

早々と解答を書きますが……

実は、現青森市内の地域には松森が二ヵ所あったのです!

今も存在している、国道の南側にある松森は

青森平野の中央部の北方に位置し、北流する駒込川の右岸にあたる。(中略)はじめは古舘村と称したともいい、のちの天保8年の郷村帳にも「松森村、古舘村事」と見える。

角川日本地名大辞典 2 青森県より

つまりこの松森は江戸時代から存在しており、国道の北側にあったという松森も江戸時代から存在していたということから、同時期に二つの松森が併存していたということになります。

ちなみに”古舘”という呼称は

 

現在も青森市内の住所として存在しています。駒込川に沿う形で、ちょうど松森の南に続いています。古舘の由来は、その名の通り “古い館” があったから。

 

戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時あるいはその子政康の時代、戦国大名として本格的な発展を遂げる。信時は、四男の達子弾正光康を外浜堤ヶ浦(現青森市堤町付近)に配置し「津軽郡代」とするとともに、延徳三年(一四九一)に南部久慈氏の一族南部光信を津軽西浜種里城(現鰺ヶ沢町種里)に配置し安東氏への押さえとした。三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである。

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城

 

その昔(江戸時代に入る前)、今の堤町に津軽郡代という統治機構が存在していました。

 

 

これは江戸時代の地図ですけど、赤い囲みの中に軍事施設(城跡)があったわけですが……しっかりと古舘と書かれております!今と昔は川の流れも違いますし、結果として川の東側に古舘という住所が残ったのでしょう。

 

でも待って。古舘から松森に名前が変わる必要はあったの?

松尾神社 青森市松森 : あちゃこちゃばやばや

青森市松森 松尾神社

 

おそらくは川沿いを中心として、古舘の以前から “松森” と呼びならわす慣習があったのかもしれませんが……。そう考えると、国道の北側に松森があっても不思議ではありません。松が多く生えていたのでしょうか?

そして調べていくうちに、気になる記述を発見しました!

昔、現在の青森市の港のほうに、松が青々とおいしげる小高い森があって、漁船が港にくるときの目印になっていました。漁師たちは、その森を、しだいに「青森」とよぶようになりました。

津軽藩二代目藩主、津軽信枚がその地に藩港の開発をめいじたとき、漁師がよんでいた名前からとって「青森村」となったのが始まりです。

 

ちょっと待ってください。

松が青々とおいしげる小高い森があって

という記述……。

(もっと詳しく解説されている記事を読みたい方は、あおもり歴史トリビアへ)

 

これって、もしかして松森のこと……?確かに昔の軍事施設なら、ある程度高い土地に建てるのが通例ですし、信ぴょう性が高い……???

 

松森青森の名前由来説、爆誕です!

 

最後にメモ書き……

*ちなみに青森市内で同じく “松” のつく地名に “松原” があり、これも堤川沿いに存在している

*弘前市やむつ市にも松森の住所があるが、繋がりは不明。おそらくは関係ない。

*ただし不思議なことに、弘前市松森と青森市松森では、木村さんが多く住む傾向?がある。

*ということならば、津軽藩で木村さんを青森町造成の際に周辺へ、城下町弘前の木村さんを派遣したか?でもそれ以上のことは僕の能力不足の為、調査することが出来ず。残念。ただただ偶然なのか。

 

↑↑そのうち、この件も手を付けなきゃ……

Author: かんから
本業は病院勤務の #臨床検査技師 。大学時代の研究室は #公衆衛生学 所属。傍らでサイトを趣味で運営、 #アオモリコネクト 。

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