ツイッターで私の代名詞とも言えるこの企画……アオモリコネクト初上陸です!
#方言de小説 とは?
これは現代語を津軽弁に翻訳して楽しむ作品です。
変えるべき表現がございましたら、どんどん指摘してください!
作者は様々なご意見を受け入れて、よりより津軽弁作品を作って参ります。
2018年11月10日にスタートしたこの企画。ほぼ1年経過いたしました。これまでは自作品である ”津軽藩以前” を方言化して参りましたが、今度からは他の作家さんの作品も翻訳させていただきます。そして読者の意見によって、作品の表現はガラリと変わって参ります。「ここがおかしいなー」とか「”OO”っていう表現のほうがいいよー」などございましたら、容赦なくご指摘ください。
標準語と方言版を見比べながら読んでもよし。方言のみでもよし。標準語のみなら普通にネットで読書するだけになりますが……ところで著作権的にどうなのというご指摘があるでしょう。
著作権は作者死後50年経過すると消滅する。
(法的見方を変えれば、70年という意見もあるが。)
よって太宰治氏は昭和23年(1948)に亡くなったため、現在2019年において問題ないと考えられます。
さて、初となる作品に選ばれたのは……
太宰治 黄金風景
ではどうぞ!
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標準語
2019/10/4
わたしは子どものときには、あまり質のいい方ではなかった。女中をいじめた。わたしは、のろくさいのがきらいで、それゆえ、のろくさい女中をことにもいじめた。
お慶は、のろくさい女中である。林檎の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とそのたびごとにきびしく声をかけてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。
足りないのではないか、と思われた。台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、わたしはよく見かけたものであるが、子ども心にも、うすみっともなく、妙に疳にさわって、おい、お慶、日が短いのだぞ、などと大人びた。
いま思っても背筋の寒くなるような非道な言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、わたしの絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃担っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもって切りぬかせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮れごろまでかかって、やっと三十人くらい、それも大将の髭を片方切り落としたり、銃持つ兵隊の手を、熊の手みたいにおそろしく大きく切りぬいたり、そうしていちいちわたしにどなられ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切りぬかれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょにぬれて、わたしはついに癇癪をおこし、お慶をけった。
たしかに肩をけったはずなのに、お慶は右のほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きにいった。「親にさえ顔をふまれたことはない。一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそうにいったので、わたしは、わすがにいやな気がした。
そのほかにも、わたしはほとんどそれが天命であるかのように、お慶をいびった。いまでも、多少はそうであるが、わたしには無智な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。
一昨年、わたしは家を追われ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのちつなぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。
ひとびとの情けで一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻きをしぼるほどの寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝毎朝のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、わたしの頭もほとほと痛みつかれていた。
そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿のわたしの名前と、それから無精髭のばし放題のわたしの顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか?そういうお巡りのことばには、強い故郷の訛りがあったので、「そうです」わたしはふてぶてしく答えた。「あなたは?」
お巡りは痩せた顔にくるしいばかりにいっぱいの笑みをたたえて、「やあ。やはりそうでしたか。お忘れかも知れないけれど、かれこれ二十年ちかくまえ、わたしはKで馬車やをしていました」
Kとは、わたしの生まれた村の名前である。「ごらんの通り」わたしは、にこりともせずに応じた。「わたしも、いまは落ちぶれました」「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きになさるんだったら、それはなかなかの出世です」わたしは苦笑した。
「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのおうわさをしています」「おけい?」すぐにはのみこめなかった。「お慶ですよ。お忘れでしょう。お宅の女中をしていたー」
思い出した。おお、と思わずうめいて、わたしは玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対してのわたしの悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座にたえかねた。
「幸福ですか?」ふと顔をあげてそんな突拍子もない質問を発するわたしのかおは、たしかに罪人、被告、卑屈な笑いをさえ浮かべていたと記憶する。
「ええ、もう、どうやら」くったくなく、そうほがらかに答えて、お巡りはハンカチで額の汗をぬぐって、「かまいませんでしょうか。こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」
わたしは飛び上るほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、わたしはいい知れぬ屈辱感に身もだえしていた。けれども、お巡りは、ほがらかだった。
「子どもがねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、まあ、お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」
すこし顔を赤くして笑い、「おかげさまでした。お慶も、あなたのおうわさ、しじゅうしております。こんどの公休には、きっといっしょにお礼にあがります」急にまじめな顔になって、「それじゃ、きょうは失礼いたします。お大事に」
それから、三日たって、わたしが仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとしておれなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
わたしは自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。「来たのですか。きょう、わたしこれから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においでください」
お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしいにごった眼でぼんやりわたしを見上げていた。
わたしはかなしく、お慶がまだひとこともいいださぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。竹のステッキで、海浜の雑草をなぎはらいなぎはらい、いちどもあとをふりかえず、一歩、一歩、地団駄ふむようなすさんだ歩きかたで、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。
わたしは町で何をしてたろう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾り窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、とささやく声が聞こえて、これはならぬとはげしくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、わたしはふたたびわたしの家へとって返した。
うみぎしに出て、わたしは立ち止まった。見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞こえてくる。
「なかなか」お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶はほこらしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変わっておられた。目下のものにもそれは親切に、目をかけてくだすった」
わたしは立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持ちよく溶け去ってしまうのだ。負けた。これは、いいことだ。そうでなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、またわたしのあすの出発にも、光をあたえる。
ーもうすぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
方言版
2019/10/4
わっきゃわらしのときだば、あんまいいんた方でねがった。女中ばえんずめた。わっきゃ、のろくせえのきれえで、だはんで、のろくせえ女中ばたんげえんずめた。
お慶は、のろくせえ女中だ。林檎の皮っこむかせても、むきながら何ば考えてらのか、二度も三度も手ば休めてろ、おい、とそのたびごとにきびすく声っこかけてやんねと、片手さ林檎、片手さナイフば持ったまま、ずんぶぼけらっとすてらんた。
足りねのでねが、と思わぃだ。台所で、何もしねえで、ただゆったどつっ立っちゃあ姿ば、わっきゃたんげ見かけたもんだばって、わらしの心さ、うすみっともねく、なんつか疳ささわってろ、おい、お慶、日短えんだはんで、などと大人びた。
いま思っても背筋の寒くなるんたまね言葉ば投げつけてろ、そえで足りずに一度はお慶ばよばって、おいの絵本の観兵式の何百人とねくばやめいちゃあ兵隊、馬さ乗ってら者もあり、旗持っちゃあ者もあり、銃担ってら者もあり、そのふとりふとりの兵隊の形ば鋏でもって切りぬかせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わねえで日暮れごろまでかかってろ、やっと三十人だがな、それも大将の髭ば片方切り落とすたり、銃っこ持つ兵隊の手ば、熊の手みてえにおっかねくがばっと切りぬいたり、そうすてなんぼもわーさどならぃ、夏のころであった、お慶は汗かきだはんで、切りぬがぃた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょにぬえてまって、わっきゃついに癇癪ばおこす、お慶ばけった。
たすかに肩ばけったはずなんだばって、お慶は右のほおばおさえてろ、がばと泣き伏す、泣き泣きにしゃべった。「親さも顔っこばふまぃだごどね。一生おぼえでらはんで」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそうにしゃべったはんで、わっきゃ、わんかいやな気がすた。
そのほかも、わっきゃまんずそれが天命であるんたように、お慶ばえんずめた。いまでも、多少そうだんた、わーには無智な魯鈍の者は、たげ堪忍できねえんだ。
一昨年、わっきゃ家ば追わぃ、一夜のうちに窮迫す、巷ばさまよい、諸所さ泣いてろ、その日その日のいのちっこつなぎ、やや文筆でかって、自活できるあてがつきはずめたと思ったとたん、病ば得た。
ふとぶどの情けっこで一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くさ小っちぇえ家ば借り、自炊の保養ばすることでき、毎夜毎夜、寝巻きばすぼるほどの寝汗とただげえ、そえでも仕事はすねばなんねえし、毎朝毎朝のしゃっこい一合の牛乳だけが、ただそんきが、奇妙に生きてらんたよろこびとすて感ずられ、庭の隅の夾竹桃の花っこ咲いたのばも、めらめら火っこ燃えてらんたすか感ずられねかったほど、おいの頭もたんげへずねかった。
そのころのこと、戸籍調べの四十さ近え、痩せてら小柄のお巡りが玄関で、帳簿のおいの名前と、それから無精髭のばす放題のおいの顔とば、までに見比べ、あらど、なっきゃ……のわらしじゃねえべか?そんだお巡りのことばさは、強え故郷の訛りがあったはんで、「んだ」わっきゃふてぶですく答えた。「なっきゃ?」
お巡りは痩せた顔になんぼずっぱど笑みばたたえで、「んだべ。そうだべな。忘れてらかも知れねばって、かれこぃ二十年ぢけぐめえ、わっきゃKで馬車やばすてらった」
Kとは、おいの生まぃだ村の名前だ。「みでら通り」わっきゃ、にこりともしねえで応ずた。「わーも、いまは落ぢぶれてまった」「なんもなんも」お巡りは、たんげ楽すげに笑いながら、「小説ばお書ぎになさるんだば、それはながながの出世だべさ」わっきゃ苦笑すた。
「とごろで」とお巡りはわんつか声ばちっちぇく、「お慶だっきゃむったどおめのうわさっこばすちゃあど」「おげい?」すぐにはのみこめねかった。「お慶だよ。忘れちゃんだか。お宅の女中ばしたったー」
思い出すた。おお、と思わずばやめいてろ、わっきゃ玄関の式台さしゃがんだまま、頭ばこまって、その二十年めえ、のろくせかったふとりの女中さ対すてのおいの悪行、ふとつふとつ、はっきり思い出さぃ、ほとんど座さたえかねた。
「あずましくしちゃあが?」ふと顔っこばあげてそった突拍子もね質問ば発するおいのつらは、たすかに罪人、被告、めぐせえ笑いっこば浮かべちゃあと記憶す。
「ええ、もう、んだんた」くったくねく、そうほがらかに答えて、お巡りはハンカチで額の汗ばぬぐって、「いいんだば。こんどあれば連れて、いちどゆっくりお礼さくべ」
わっきゃ飛び上るほど、ぎょっとすた。まんず、だばって、それさは、とはげすく拒否すて、わっきゃ知らね屈辱感さ身もだえすてら。だばって、お巡りは、ほがらがだった。
「子どもがねえ、な、ここの駅さづどめるようになってろ、それが長男だ。それがら男、女、女、その末のが八づでごどす小学校さあがった。もう一安心。お慶もこいかったべ。なんちゅうが、まあ、お宅だんた大家さあがって行儀見習いすた者は、やはりどごが、ちげえんだ」
わんつか顔ば赤くすて笑い、「おがげさまですた。お慶も、おめのうわさっこ、たんげしちゃあはんで。こんどの公休さ、きっとかでてお礼さあがります」急にまずめな顔さなって、「んだば、きょうは失礼いだすます。いぐしてな」
それから、三日たってろ、わー仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、えでずっとすておれねで、竹のステッキ持って、海さ出るべと、玄関の戸ばがらがらあけたっきゃ、外さ三人、浴衣っこ着た父と母と、赤え洋服っこ着た女の子と、絵のように美すく並んで立っちゃあ。お慶の家族だ。
わっきゃ自分でも意外なほどの、おっかねくでっけえ怒声ば発すた。「来だんだが。きょう、わーこぃがら用事あって出がげねばまいね。お気の毒だばって、まだの日にきてけれじゃ」
お慶は、品のい中年の奥さんになっちゃあ。八づの子は、女中のころのお慶さまんず似てら顔ばすていで、うすのろらすいにごった眼でばふらっとわーば見上げでらった。
わっきゃがなすく、お慶がまだふとこともしゃべらねえうち、逃げるように、海浜さ飛び出すた。竹のステッキで、海浜の雑草ばなぎはらいなぎはらい、いちどもあとばふりがえらねえで、一歩、一歩、地団駄ふむようなあらげねえあさぎかたで、とにかく海岸伝いに町の方さ、まっすぐにあさいだ。
わっきゃ町で何ばしちゃんだか。ただ意味もねく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾り窓ば見つめたり、ちえっちえっと舌打ちっこすては、心のどこかの隅で、負げだ、負げだ、とささやぐ声っこ聞けて、こぃだばまねとはげすくからだばゆすぶっては、またあさぎ、三十分ほどそうすてらかな、わっきゃまんたおいの家さとって返すた。
うみぎすさ出て、わっきゃ立ち止まった。見よ、前方さ平和の図がある。お慶親子三人、のどがに海さ石の投げっこすて笑い興ずてら。声っこがここさも聞けてく。
「まんずな」お巡りは、たんげ力こめて石ばほうって、「頭のいいんた方でねが。あのふとは、ずんぶ偉くなるぞ」
「んだ。んだべし」お慶はほこらすげな高え声だ。「あのかたは、ちっちぇえどぎがらふとり変わってらっだ。目下のふとさもそれは親切に、目ばがげでけた」
わっきゃ立ったまま泣いてまった。けわすい興奮、涙で、まるで気持ちいく溶け去ってまるのだ。負けた。こぃは、いことだ。そうでなけぃば、いげねのだ。かれらの勝利は、またおいのあすの出発さも、光ばけるんた。
ーもうすぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
完結!