(先に尼の妙誓さんを知りたい方は→→下リンク←←)
単刀直入にお伺いいたします!
皆様はモロモロドーレ祭りと聞いて、何を思い浮かべますか?
別に裸祭りとか、卑猥な意味ではありません。
かといってスペインみたいにOlé!とフラメンコを踊るわけでもございません。
でもある意味で似ているかも……?
↓↓答え↓↓
↓↓↓↓↓↓
正式名称は、船霊祭と申します!
そしてモロモロドーレはその際の掛け声なのです!!
今このお祭りはありますか?聞かないので、ないと思いますが……ネット調べでも青森で行われている形跡はなし……。でも微かにその伝統は残っております。例えば出雲大社では行事として残っております。他にも海運業者で新しい船に対して行う例がチラホラございます。
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古の青森においては、以下のように行われていたらしいです。
半島沿岸の漁村では正月十一日をオフナダ様の日といって、神棚に神酒や魚を備えて祝う。
1970年出版 津軽の民俗より
半島とはもちろん津軽半島のことです。油川は半島の付け根。一番大きな港町!このお祭りはもちろん盛大に行われていたことかと思われます。そして”モロモロドーレ”の根拠は……
それがすむと船頭は、船主たちの家を廻る。このとき門口で『モロモロ』と呼ぶと、内から『ドーレ』といって家人が出て招き入れるという古風な挨拶がこの日に限って行われた。
1970年出版 津軽の民俗より
地域差は若干あるようです。両方の付け根である鯵ヶ沢と油川を同じく捉えることも難しいですが、文章としてはこのように残っております。詳しいお話を知りたいので、ご存知の方はぜひともご教授ください!
話を戻しまして、つまりモロモロドーレのモロモロは ”諸々のことは息災でございますか” という意味。ドーレは ”健やかに暮らしておりますよ。どれどれ、家へお入りください” ということになります。これを元気よく叫びながら呼びかけると(祭りなので)。雪も積もってますし、ある程度声が大きくないと聞こえにくいという事情もありますから。
この祭りの中身を知ってしまうと、”ふ~ん。昔こんなのがあったんだね” という感じでお終ってしまいます。これをモロモロドーレ祭りと言ってしまうと、あら不思議♪インパクト大ありなお祭りになってしまいました!奇妙でもなんでもない。ネーミングってすごいですね♪
……で!ここからが本領を発揮する所!!
僕は普段より小説をネットで公開しておりますが……ちょうど油川の絡みが場面にありましたので、この話をうまいこと使ってやろうと。ひねくり返してやろうと!
油川の正月は十一日目で終わる。
その日は天正七年、旧暦一月十一日。船霊祭といい、船の多く集まる油川湊であるので航海の安全を祈願する。この時を以て日常へと戻る。
早朝より船頭は家々を廻り、“モロモロ(=諸々のこと、いかがですか?)″と呼びつけ、家の内側から ”ドーレ(=どれどれ、いらっしゃい。)“ と言って彼らを招き入れて酒などを振る舞う。しかしこの年はこれだけで終わらなかった。船頭のみならず、商人らや門徒宗(本願寺派)の僧侶など最低でも百人を超す。お祭り気分で参加した外地の者もいたので、千に迫る群衆だったかもしれない。その人の群れは油川の一箇所を目指した。油川町の中心、そこは熊野宮……。滝本重行の屯所である。
町衆は ”モロモロ“ と外側から大声で叫び、至極一方的なものであった。中の者が酒を振る舞うはずはないし、しかも滝本に従う家来衆は少なく二十名ほどしかいない。壁越しに周りを見てみると弓槍鉄砲とさまざまな武器を持つ者らが大勢見える。目を逸らそうと上を眺める……からりと晴れた空であったという。雲は遠く北の方に映るが、こちらへは確実に流れてこない。風向きが違うから……ただ、そんなことを考えている暇はない。いや、わざと考えることで現実逃避する。しかし思わず考えることをやめると、代わりに恨みや憎しみが湧いてくる。せっかく教え導こうとしているのに……浪岡を取り戻してやるために調練をすれば逃げていくし、油川の町衆はそれ以前に拒否した。何かいけないことでもしたか……思い浮かばぬ。
……その混乱は三刻も続き、人の群れは勢いを増し続ける。ただただ熊野宮を囲むだけであるが、滝本にしてみれば物凄い恐怖。すると……人波を押しのけて南部の二羽鶴の旗がこちらへ近づいてきた。町衆に止める様子はない。誰だろうと思い門の近くで構えると、騎より下りたのは奥瀬善九郎だった。彼は滝本を乗ってきた馬に跨るように促した。丁寧に手招きし、滝本が対面すると、落ち着いてこのように告げた。
「すでに収まりはしませぬ。このままでは……滝本殿は民に殺られる。しかし滝本殿の心持、私もわかっております。」
”それで……どうしろと”
「はい。ひとまずは私の遠縁がおります田名部へお逃げください。……落ち着けばいずれ、外ヶ浜へ戻ることもできましょう。」
湊で構える船に乗るため、滝本は馬を進める。まっすぐ前の方を見ているが、横へ目を向けると……町衆は己に向けて睨んでいたり、嘲笑ったり。耳には容赦なく笑い声が入ってくる。失意のうちに……用意された船にのり、彼は外ヶ浜の油川湊より追い出された。
これぞ、町衆の勝利である。
津軽藩起始 六羽川編より
はい、祭りの悪利用ですね。外の人がいくら”モロモロ”と叫んでも、中の人は”ドーレ”と叫ばない。叫べない。逆に人を入れたくない。そしていつの間にか、中で籠る人を追い出してしまった……。何千人もの大衆が外から中に向けて ”モロモロ” と叫ぶ恐怖!すごいでしょ(笑)
ものすごいイジメ。マネして引きこもりなんかに ”モロモロ” と叫んだらダメですからね。
さて次の話題は、尼の妙誓さんです。(または明誓とも)
正直なところ、知らない方は多いと思うのです。でももしや……明誓寺はご存じで?
→→明誓寺リンク←←
名前の由来はまさしく彼女です!彼女が作ったわけではございませんが、彼女を慕っていた町衆らが僧侶を呼んで作らせたとか。元をただすと妙誓さんは明行寺の出身。戦国時代の油川にはかつて三寺ありまして、浄満寺・法源寺・念西坊(明行寺)がございました。ただし1582年に法源寺は浪岡へ移っており、1585年の津軽為信による油川侵攻の際には寺が二つだけになっていました。
→→浄満寺リンク←←
その際に為信に味方したのが妙誓さんのいる念西坊(明行寺)。住職の頼英、つまり妙誓さんのご師匠さんはそのように判断いたしました。
逆に為信の意に添わなかったのは浄満寺。油川城主である奥瀬氏の菩提寺ですので、敵方の為信に従いたくなかったのです。結果として荒廃し、再建は江戸時代に入ってから。1619年の出来事です。加えて念西坊(明行寺)も1606年に津軽藩の意向により、弘前への移転を命じられました。(ついでながら浪岡の法源寺も弘前へ移りました。)
…となると、油川から寺が消滅してしまったのです!
1軒もない。まったく無くなってしまいました!!
つまるところ、津軽藩は油川を恐れた。油川の町衆の力が怖いのです。そこで宗教の力と町衆を引きはがしてしまえと。
その事態に大反発したのが、妙誓でした!
信仰は大事なのです。そのかけがえのない心までもお前らは奪っていくのかと。油川を我が物とし、権益を奪ったことに飽き足らず……心まで奪うのかと。
妙誓は寺の僧侶らと別れを告げ、ただ一人油川に残りました。命令には従わぬ。女がてらのじょっぱりを見せつけました!ただ彼女だけが、町衆の心に寄り添い続けたのです。
ちなみに弘前へ移った念西坊(明行寺)は円明寺と名を改め、今に至っております。
この話はぜひとも語り継いで欲しいんですけどね……。