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・懐かしさとほろ苦さが渦巻く想い出には、ふたたび辿りつこうにも叶わない切なさがある。幼い記憶はしだいに薄れゆき、あの、ひと粒のハッカ飴がもたらした不思議な体験すら、現実のできごとなのか自信がない。
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・良太が小学二年の夏を迎えるころになると、東京で療養中の母から手紙が頻繁にくるようになって、それがポストに届くたびに老人と良太は代わるがわる読み下した。香取神社で足に大怪我を負い、足を包帯でぐるぐる巻にされた良太は、老人の送り迎えなしに学校へ通えなかった。良太が通う長島小学校の校舎は戦争で焼け残った正面の部分を生かしていて、口の字のように校庭を囲んで木造の校舎を継ぎ足している。つまり外から校庭はまるで見えず、全校集会ともなれば、方々にある内側の出入り口から生徒が湧きでるようにして集まっていた。
・廊下や階段は昔ながらの板張りで、方々に突きでる釘や板の節穴は、ビー玉や消しゴムの削りくずを丸めた玉をもちいた遊び場になった。一間ほどある幅の広い階段下には身の丈を超えるほどの薪が積まれていて、当番の生徒は、薪の渋い臭いを我慢しながら教室に運ばなければならない。薪はストーブで燃やされて、タライの湯にひたした給食の牛乳瓶をあたためるのにも使われた。
・そうした木の香漂う校舎の下校時間。怪我人の良太は、正面玄関にある校長室の前に置かれ椅子に腰掛けて老人を待つ。内履きから外履きに履き替えて帰る友達を横目に、ともに遊べない良太は口をへの字に曲げていた。
・校長が通りかかり、
「おじいさん待っでるのが?」
・と、声をかけた。このころあいに老人が現れて、老人は校長にむけて慇懃に挨拶をする。
「おかあさんの加減はどんな按配だべ?」
「もうすばらぐで、青森さこれるべ」
「まんず、そいだばよがった。おじいさんも体さ気いつげねばな」
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・校長が校長室に姿を消すなり、老人は良太をおぶって自転車まで連れてゆく。いつものように座布団を括りつけた荷台に良太をのせると、自分は自転車をまたがずにそのまま押し始めた。老人は、良太に母がいなくて寂しいかと聞いたことはない。黙々と自転車を押す老人は、校長との会話から母のことを思うはずだが、それを紛らわすように戦災を乗り越えた校舎を見まわした。
「この校舎ば建て直すんだと……したけど、おめいるうぢにはできねべな」
「おじいちゃんも長小でたんだべ?」
・そうだと老人はうなずくと、自転車のスタンドを立てる。
「むがしは、こごさも奉安殿があってな、学校さくるどきも帰るどぎも、天皇さ礼ばしてがら帰えんねば、見張りの先生がら、てっぺ叱られだもんだ」
・良太は、なんの話なのか理解できない。なんでもそこには天皇陛下の写真が飾ってあって、教育に関する勅語が保管されていたらしい。老人は孫が怪訝な顔をしても意に介さないようだ。
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「棟方志功もここばでだんだべ?」
「んだ、すこうのばがっこな」
・学校では、創立百年にむけてなにかと棟方志功の話題がでる。志功は有名な版画家らしく、先生が志功の名を語るたびに誇りに思っているのがよくわかった。その志功を、あろうことかばがっこなどと言い捨てる老人を、良太は口を半開きのまま見詰め返す。
「校舎の脇さな。壊れだ机だの椅子ば積んでだもんだね。志功は、そいさ日暮れるまで彫り物ばすてた。いづ見でも、机さむがって猫だけんたにまるまってるはんで、ここいらの大人は、まんだ志功のばがっこ来たって笑ったもんだね」
・老人は珍しく良太の顔をのぞき込むようにして歯を見せて、
「まぁ、好ぎだっでごとはたいしたもんだ」
・と、付け加えた。
・志功の話がでたおりもおり、小学校の隣にある大谷幼稚園から園児がわらわらと湧いてきた。なにか催し物でもあったのか、その手には棒つきの風船が握られている。ピンクや赤、そして青の風船が揺れていて、それへ目を三白に見開いた良太は、なにかしらの予感から白い風船を探した。
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「いったい、どういうことだ――」
・白い風船を見つけた途端にする後背の声。振り返ると、校舎を見あげながら立ち尽くす男がいる。どこかの勤め人らしい中年の男は紺色のスーツで身を整えていて、校舎を見まわしながら歩くたびに革靴の音がする。良太がふたたび幼稚園に目をむけると、園児たちがバスに乗りはじめていて、その賑やかな人垣のむこうに髪の長い女が立っていた。エプロン姿は幼稚園にありがちな装いだが、じっと良太を見据える白い顔は、知恵先生だ。スーツの男が三人目だと確信をした良太は、男にむけて大胆に口をひらいた。
「おじさん、どうしたの?」
・突然に子供から声をかけられて、男は答えることなく校舎に目を戻したが、考えを改めたようにむきなおる。
「ボク、ここの生徒?」
・良太は、こっくりとうなずく。
「おじさんはここの卒業生なんだけど、どうして校舎がこんなに古くなったんだろう。ここ、長島小学校で間違いないよね?」
・良太は、男の疑問がよくわかる。男はきっと、校舎を建て直した時代からやってきたのだろう。
「おじさんはどこから来たの?」
「えっ、わたしは会社に出勤して……あれ、なんでここにいるんだ?」
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・玄関から下校の生徒がでてきて、門からちりぢりになった生徒は、むかいの文房具店や角の駄菓子屋に駆け込んでゆく。どこへむかうでもないグループは道の方々に集まり嬌声をあげるが、その群れがひとつふたつではないから通りは賑やかな声で満ち溢れる。かたや大谷幼稚園のバスが園舎のピロティから出発し、男がそれに目をむけると鮮やかな黄色い帽子をかぶった園児らが手を振ってきた。こうした子供たちをひとしきり眺めた男は、良太を顧みる。
「子供が多くないか? わたしの知ってる長小は学年にひとクラスしかなくて、そのクラスさえ十数人しかいなかった」
・これには良太が驚かされた。長小は新町をはじめとする商店街を抱えた学区だから、周辺の町々とくらべれば生徒が少ないと聞いたことがある。それでも特殊学級を含めれば一学年四クラスあるし、ひとクラスだけで四十人はいるのだ。先々の長小は、そんなにも生徒が少なくなってしまうのだろうか。
「それにこの校舎。わたしの知る長小は、オレンジ色をした鉄筋コンクリートの建物だった。それがほとんど木造じゃないか」
「叔父さんのころも、棟方志功って有名なの?」
「有名どころの話じゃないよ。この学校にだって記念碑があるじゃ――」
・当然あるだろう視線の先に、それがない。男が知る記念碑は、創立百年を記念して建てられたもので、棟方志功の筆で汝我志磨と書かれている。
「それに……学校の前に文房具屋や駄菓子屋なんてなかった。確かにここは長島だと思うが、町の眺めがすっかり変わっている」
男は例に漏れず狼狽えるが、良太の好奇心はとどまらない。
「ねえねえ、おじさんが子供のころってなにで遊んでたの?」
・突然の問いに男は怪訝な顔になるが、
「スーファミとかゲームばかりしていたな」
・と、返す。
「すーふぁみ?」
「知らないのか? テレビゲームだよ。マリオとかよくやったもんだ」
「かくれんぼやチャンバラとかしないの? それに、ビッタやパッコとか」
・かくれんぼと聞いて男は笑った。かくれんぼくらいしたことはあるが、それはほんとに幼いころで、良太くらいの年頃には塾もあるし、独りで遊ぶことが多かった。
「友達と遊べないなんて、なんかつまんないなぁ……」
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・良太が鴉のように口をとがせると同時、腰かけていた荷台がどすんと下がり、慌てて前のサドルにしがみついた。老人は自転車のスタンドを外して押し始める。この衝撃でスイッチが押されたように男は消えていて、校舎がゆっくりと遠のいてゆく。駄菓子屋からでてきた生徒らが、大きな芋菓子が当たったなどと騒いでいる。
「おじいちゃん、おらも芋菓子喰いてぇなぁ」
「すぐまんまだはんで、そしたものかねくていい!」
・良太は、心の奥底からがっかりした。砂糖をまぶした細長いドーナツに黄色の芋餡が入った菓子。これは大好物なのだ。
「すーふぁみって知ってる?」
・老人はそれが聞こえたのか聞こえないのか、振り返ることなく自転車を引き続ける。福の湯の煙突が見えてきた。鴉が一羽二羽、煙突の白い煙を避けながら浦町の空へ遠のいていった。
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第四話 志功のばがっこ(了)
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