おもいでファンタジア 第一話 保育園のハッカ飴 鵜飼真守

懐かしさとほろ苦さが渦巻く想い出には、ふたたび辿りつこうにも叶わない切なさがある。幼い記憶はしだいに薄れゆき、あの、ひと粒のハッカ飴がもたらした不思議な体験すら、現実のできごとなのか自信がない。

昭和の眺め。良太が、はじめて訪れた青森の冬。

列車からおりるなり、良太は父方の叔母から母方の祖父へと引き渡された。ホームを覆う黒屋根の隙間から鉛色の空が見えて、横殴りに吹き付ける風で細かな雪が舞い上がる。はじめての雪に、良太の目が大きく見ひらく。

「さっ、したらいぐべ」

老人は細い銀縁メガネの人で、作業服に似た黒っぽい外套をはおっていて、毛皮の耳隠しのついた帽子をかぶっている。良太は、そのメガネがつめたく光を返すたびに身をすくめて叔母を顧みるが、老人は岩のようにゴツゴツした手で良太を連れ去ろうとする。これが母代わりに世話をしてくれた叔母との別れなのだと、幼いながらに良太は察して、せわしく行き交う人にはばかりなく声をあげて泣いた。叔母は涙目になすことを見つけられず、とっさに鳥打ち帽の駅弁売りから凍みた蜜柑を買い求めると、良太に手渡す。

「りょうちゃん、元気でね。いつでも千葉に来ていいのよ」

そういって、寒いだろうと自ら編んだ毛糸の帽子を直して良太の耳を隠した。
叔母と別れてからも、そのやさしい言葉が頭をめぐって良太はべそをかく。老人に引かれてホームの階段をのぼるが、階段のあちらこちらにこびりついた雪に足をとられた。

「ここが青森だ」

駅をでるなりのまぶしさに、良太は目がくらんだ。粉雪が舞う駅前の広場に時計台が立っていて、その広場を丸くかこんだ道を三輪や四輪、そして鼻のながいバスがぐるぐるとまわっている。どこからともなく、聞きおぼえのある歌が流れてくる。

わすれられないの あの人が好きよ
青いシャツ着てさ 海をみていたわ 〽

枕もとに置かれたラジオから流れた曲で、叔母は肘をついたうつ伏せで楽しそうに鼻歌を歌っていだ。良太は、やさしい叔母の面影とともに温暖な千葉を思い浮かべた。
駅の右手に林檎や蜜柑の木箱を積んだ露天がならび、その先の遙か彼方には真っ白な雪をたたえた山々が稜線を連ねている。足もとを見れば、蜜柑の皮が雪に踏みしめられていて、それは蜜柑を頬ばりながらおしゃべりに昂じる林檎売りの老婆たちが捨てたものだと、すぐにわかった。ほっかむりの頭に厚い綿入りのちゃんちゃんこ。前掛け姿の老婆がせわしなく話す言葉は、良太にはまるでわからない。

町をどれだけ歩いただろう。この地では息が煙のように白くなって、良太はそれがおもしろく、意味なく頬をふくらませては息を吐きだした。老人が、

「ここは県病。してこっちが裁判所だ」

と、細かに教えるが、良太は老人に追いすがるのが精一杯で耳に残るものはない。それでも、ひときわ空けた道でそりを引く馬に出くわした際はさすがに仰天し、雪道に杭で打たれたように身動きができなくなった。馬は、のっそのっそと大きな尻を振りながら際限もなく糞をまき散らす。その有様に良太がしかめつらで鼻をつまむと、老人ははじめて歯を見せて、

「まんず最近だば、まっこば見るのは珍しぐなった」

と、笑う。

廣田神社を道の左右にして山手に歩き、大きなガソリンスタンドと床屋のある交差点を左に折れる。老人は、呉服屋と清掃事務所の隙間に行きつくと、足を止めた。

「ここが長島。ここが、おらえだ」

そこはいわゆる旗竿地で、奥に進むには左右双方の屋根から落ちた雪の小山をのぼらなければならない。老人の長靴は雪をしっかりと踏みしめるが、良太が履く子供靴は頼りなくなんども足を滑らせる。そのたびに老人は良太を引き上げて、玄関に導く。

「すがまさ気いつけろ!」

見おろすと玄関は雪の階段を下ったさきにあり、すがまとは玄関のひさしに垂れる大きな氷柱であって、二人は身をかがめてそれをやり過ごした。玄関の古めかしい引き戸がしぶい軋みをあげると、真正面が急な階段で、右側にある居間はまっ昼間にも関わらず薄暗かった。それは二階建ての一階がすっぽり雪に埋もれているからで、二人は二階の高さから雪の階段を下りたことになる。
老人は孫にねぎらいの言葉ひとつ与えるわけでもなく、灯りをつけると、マッチでストーブと居間に接する和室の火鉢の火をおこした。そして厄介者を身から剥がすように、帽子を脱いで禿げ頭をあらわにする。

「腹へっでねが?」

老人は孫のこたえを待たずに四角のひらべったい缶から虹色の煎餅を取り出して、大きな手でこすりだす。そして粉をひと吹きしてから火鉢の上に敷いた金網にのせた。

「おじいちゃん、それ、お煎餅なの?」

「ほす餅だべ。いま、バター塗るはんでわんか待っでろ」

のせたバターがみるみる溶ける。それは餅の表面にある細かなひび割れにしみこんで跡形もなく消えたが、心なしか餅がてらてらと艶を増したように見える。それをまんじりともせずに見つめる良太の目を老人の手が遮り、素手のまま熱がりもせずに皿にのせた。

「おじいちゃん。これ、かたい……」

「うるがして、けばいい」

良太は、このかたい餅を好きになれなかった。それでもおなじ缶から餡子入りの餅がでることがあって、老人が缶に手をかけるたびに胸をときめかせる。

この家の臭いは、どこかほし餅に似ていた。それは台所につながる土間から湧いてくるのだと、まもなくしてわかった。土間には餅つきで使う臼が置いてあって、庭に面する扉をあけると小さな井戸があった。
老人が大工の仕事を手伝っていることから、良太はとなり町の保育所に入ることになった。そこは浦町と呼ばれるところで、老人の新聞配達が使うような自転車で送り迎えされた。どんなに雪が深くても、老人は良太を荷台にのせて、自分は乗ることなく自転車を押した。


「あたらしいお友達を紹介します。千葉県から来た良太くんです。みんなよろしくね」

年長のもみじ組を担当していたのは知恵先生だ。長い髪を後ろで束ね、ほかの先生と同じように青いエプロンをしている。先生が良太を紹介すると、なかでも大柄な男の子が前にでて口に筒手をあてて、

「ち~ば~」

と、意味なく声を張りあげる。すると、まわりの子はそれに応えてゲラゲラと笑った。

「おめ、なずぎどしたんずや?」

その子が話しかけるが、良太はてんで意味がわからない。

「良太くんは津軽弁がわからないの。ヒデキくんはね。おでこはどうしたのと聞いてるのよ」

「これ、おじいちゃんに貼ってもらったの」

おでこに貼った絆創膏に手をあてたらあてたで、また笑われる。このように良太は事あるたびにからかいの的になるが、子供が群れるのは楽しいもので、半月と経たないうちにほかの子に馴染んでしまった。とは言いつつ、良太にとってどうして耐えがたい時間がある。良太には昼寝の習慣がなかった。それが昼食を終えるたびに一時間寝ろと言われるのだから苦痛でしかない。言いつけとおりに昼寝をすれば、ご褒美にドロップ飴をくれるから仕方なく寝たふりをするが、その一時間がとんでもなく長く感じる。良太は、あまりの手持ち無沙汰に鼻のてっぺんをこすり続けたら、ついには皮がむけて老人からずいぶんと叱られた。

ある日。お昼寝の時間が終わると、いつものように知恵先生がドロップの缶を片手に現れた。

「もみじ組はみんなお利口さんね。ご褒美にドロップの時間ですよ」

そう聞いた子供たちは、万事心得ていて先生の前に整列する。オレンジやレモンのドロップが渡されて、大柄なヒデキにグレープがでると、好物なのか彼は飛びあがって喜んだ。

「良太くんは……ハッカね」

先生が白いドロップを手のひらにのせた途端、子供たちから悲鳴が沸き起こった。それは驚きと笑いの入り交じるもので、好奇な目はいっせいに良太にむけられる。

「どうしたの? 良太くんはハッカよ。はい、どうぞ!」「どうしたの? ねえ、どうしたの?」

繰り返される先生の問いが良太の頭を駆けめぐる。辛いハッカは子供らにすこぶる不人気で、ハズレを意味している。

「さあ、どうぞ!」

先生の白い手が、にょろりとのびる。そろった前髪に見え隠れする眉根がかすかに寄って、いい加減手間をかけさせるなといった先生の心が見え隠れして、いたたまれなくなった良太は、たまらずトイレに逃げ込んだ。
この出来事以来、良太にとって昼寝の時間は、ますます憂鬱な時間になった。

いつものように老人と一緒に登園をすると、玄関の上がりの片隅に先生たちが集まり、なにやらヒソヒソと話している。なかにはすすり泣く先生もいて、そこに知恵先生の姿はなかった。

「先生、事故で亡くなっだんだど」

老人が晩になってからボソリと口にしたが、それがなにを意味するのか、良太にはよくわからなかった。
それから、もみじ組は所長先生の受け持ちになって、知恵先生は二度と現れなかった。


青森駅前から南東にのびる目抜き通りは、新町通りと呼ばれる。百貨店をはじめとする商店がならんでいて、その連なる軒が、柳町の川沿いに海から国鉄の線路までを縦につらぬく通りまでアーケードがかけられている。 アーケードには季節ごとの賑やかな飾りがさげられていて、良太は歩くだけでわくわくする。とくに松木屋や武田デパートに連れられるときはなおさらで、こんなときの目当ては、おもちゃ売り場や屋上の遊園地で遊ぶことだった。

「松木屋さ行くべ」

老人の言葉に、良太の胸が高鳴る。老人は町にでてもほとんど買い物をしないが、それは松木屋に行っても同じことで、良太を連れまわしては賑やかな雰囲気だけを楽しんでかえる。たとえ屋上の遊園地に寄っても、せいぜい十円の乗り物に一回乗せるだけで階下におりる。おもちゃを買い与えるわけでなく、良太はそのたびに口をとがらせてすねるが、そうした悔しい思いはすぐに忘れてまた行きたくなる。

はじめて青森にきたときに歩んだ道をさかのぼるようにして、廣田通りを経て裁判所と県病の間の細道を歩く。突き当たりにある警察署を右に折れて交差点まで行きつけば、新町通りに面して建つ松木屋が見えてくる。松木屋の接する交差点は、道をはさんでバスセンター、はすむかいには富士屋食堂があって、寒空にかかわらず相変わらずの人通りだ。松木屋の入り口には天津甘栗の赤いお店があり、えもいわれぬ甘い香りが漂ってきた。それはアーケードに流れるクリスマスソングとあいまって、良太を高揚させる。

案の定、あてどなくデパートを巡った老人は、なにも買うことなく良太を屋上の遊園地に連れていった。ところが冬のせいか屋上のドアは閉ざされていて、老人が解錠をして開くと、外は真っ白な雪の原になっていた。遊具はどれもこれもが雪に覆われていて、いつもなら乗せてもらうリスや象の乗り物までもが、こんもりとした小山になって耳だけのぞかせている。

「こいだば、まいねな」

老人はひとりごちると、未練たらたらの良太にかまわず階段を降りだした。こうなると良太は不満顔になるが、そんな良太を哀れんだのか、老人はいつにないことを口にする。

「バスセンターの蕎麦でもかへるが」

それは思いもよらないことで、青森に来てからほとんど外食をしていない良太からすれば、乗り物どころではないサプライズなのだ。
松木屋のむかい。重いガラス扉を押しひらいた老人は、蕎麦屋のカウンターに良太を連れると、かけ蕎麦をひとつ注文した。蕎麦屋とバス乗り場はガラス一枚で仕切られていて、多くの乗車待ちの人が見える。発車時刻に間がある人なのか、カウンターには猫のように背を丸めて蕎麦を啜う客が数人いた。蕎麦は注文をしてから瞬く間にできてきて、老人は小鉢を頼むと良太によそい分ける。

「さ、け!」

言われるままに口をつけた良太の顔がほころんだ。千葉で与えられた父方の祖母や叔母がつくる料理とくらべて、青森で老人がつくる料理はどれも無骨なもので、正直なところおいしいと思ったことがない。それに引き換えこの蕎麦は、まるで祖母がつくる料理のようにやさしい味がした。良太が老人を見あげると、老人の丸いメガネが蕎麦の湯気で白く曇っている。そのおぼろげな白は保育所のハッカ飴を思わせて、尋常ならないことが起きそうな予感で背中がゾクリとする。良太は思わず扉ごしの外へ目をむけた。すると、天津甘栗の傍らに女の人が立っていて、良太をじっと見据えているのだ。良太の眉があがった。それは、確かに保育園の格好そのままの知恵先生だ。戸惑う良太は老人を顧みたが、あらためて外を見直すと、先生は硝子戸のすぐ前に立っている。

「おじいちゃん――」

良太は老人にすがるようにして声を漏らすが、当の老人は気づかないのか蕎麦をすすり続ける。

先生の白い手が厚い硝子戸がまるでないようにすり抜けて、良太の鼻先までのびてきた。その指にあるのは、嫌いなハッカ飴だ。

――どうしたの? ハッカ飴よ。

声ならぬ声が責めたてて、良太は膝を抱くようにしてしゃがみ込んだ。

「バスセンターって、ほんとここにあったのね!」

見上げると中学生くらいの女の子が立っていて、バスの出入りを眺めている。彼女がかけるエンジ色のメガネが、バスを見送るたびにキラキラとした。

「新町にバスセンターがあるし、松木屋は営業してるしで、もうどうなってるの?」

「おばちゃん、松木屋をはじめて見るの?」

おばちゃんといわれてむっときたのか、人差し指でメガネを正しながら良太を屈みこんで見る。

「それをいうならお姉さんでしょ。でも驚いたわ。誰に話しかけても返事をくれなくて、話せたのはキミだけだよ」

女の子は、新町通りを歩いていたところ急にめまいを起こしたらしい。ふと気がつくと、通りの様子が変わっていたそうだ。

「アーケードは急に低くなってるし……それにあれ、車道の上にあんな看板なかったはずよ」

手をかざした先には、サッポロビールの大きな看板がある。良太からすれば、あの看板はずっと前から見ているし、ねぶたはその下をくぐって練り歩くのだ。

「そしたら、松木屋のむかいにバスセンターがあるじゃない。もう、わけわかんないよ」

女の子は、あれこれと納得のいかないことをならび立てて気色ばむ。その様子に良太のあいた口がふさがらないが、その子が抱える変わった紙袋に興味がわいてきた。それはダンボールを思わせる薄褐色の袋で、英語のMが書かれている。なによりも、そこから嗅いだことのない香ばしい匂いが漏れている。

「お姉さん。その袋はなにが入ってるの?」

「あ、マック好きなの?」

「まっく?」

「……買い過ぎちゃったから、チーズバーガー一個あげるよよ」

女の子は袋から薄い紙に包まれたものを取りだして、良太に与えた。それはほんのりと温かく、ひらくと肉をはさんだパンが現れて、とろとろのチーズが縁からこぼれそうだ。

「さ、召しあがれ」

知らない人から食べ物をもらうからには、祖父に話さなければならない。けれど老人は、そんな良太たちの話に興味がないようで、無心に蕎麦を啜り続ける。良太はまじまじとパンを見詰めた。チーズは四角くくてかたいもの。良太の知るチーズはそのようなものだ。良太は、ごくりと唾を飲み込んでから思い切ってかぶりついた。すると、味わったことのない肉の風味が口にひろがり、追ってチーズとピクルスのすっぱい味が舌を刺激する。あまりのおいしさに頬のわきがキリキリと痛むほどで、あっという間にたいらげてしまった。煎餅や餡子くらいしか口にしない良太にとって、驚くほどの美味だ。

「すごくおいしい!」

「よかった。お姉さんが知る新町はね。アーケードがもっと高くて、松木屋は閉店してるのよ。松木屋だけじゃないわ。閉じた店がたくさんあって、人通りもこんなに多くないのよ」

女の子はは良太が食べ終えたパンの包装紙を受け取ると、丁寧にたたんで自分の紙袋のなかに仕舞う。良太はその話を信じられないが、賑やかな商店街が寂れてゆく様子を想像すると切なくなる。女の子はそれに気づいたのか、口角をあげて歯を見せる。

「それでもねぇ。岸壁に大きな公園やアスパムができるのよ」

「あすぱむ?」

「そう。三角の建物で格好いいんだから。キミ、名前なんていうの?」

「良太」

「りょうた君か。わたしは万里江だよ」

良太は無性にあすぱむとやらを見たくなり老人を顧みるが、いまだに二人の会話が耳に入らないらしい。いつしか老人のメガネの曇りが取れていた。良太は、はっとしてガラス戸へ振り返るが先生の姿はなく、パンをくれた女の子すら消えている。

「はやぐ、かねが!」

老人がせかすのは道理なことで、良太は蕎麦の大半を残したままだ。

「ごっつぉーさまー」

カウンターの先客が小銭をおいて立ち去ってゆく。立ち食いの蕎麦屋は、良太が食べ終えるまえに何人かの客が出入りをしていた。
その晩、良太は老人に不思議な出来事を伝えたが、老人は聞く耳をもたなかった。幼い日は、毎日が不思議なことの連続だ。良太自身も、いつしかバスセンターの想い出を記憶の引き出しに仕舞い込んでしまった。

第一話 保育園のハッカ飴(了)

Author: 鵜飼真守

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