【小説 雪鼓(ゆきつづみ)】作者、鵜飼真守

雪鼓(ゆきつづみ)
鵜飼真守

津島清左衛門なる者。陸奥の国。津軽家中の組頭と言えば聞こえはよいが、その組下はとうばかりで、上役の鼻にもかからない出世とは縁も所縁もない男であった。扶持米ふちまいの三十こくは手下二人前ほどの貧しさだが、当の本人はお気楽な性分でその飄々ひょうひょうとした人柄から足軽たちに随分と慕われていた。露寇ろこうに備えて蝦夷地へ赴いた折も、あれよこれよと手下に気をつかうさまは、
「あれでは誰が主人か分からぬものよ」
と、ほかの組頭ばかりか足軽からも冷やかしを受けるほどであった。

文政五年(一八二二)十二月
弘前城・北曲輪きたのくるわに口を開けた亀の甲門から北へ幾ばく。侍屋敷を越えて岩木川より引いた田堰たぜきに沿って立ち並ぶ足軽長屋に、清左衛門の姿があった。米の収穫を終えてわら焼きの煙が城下を覆ったのは随分と前のことで、雪が落ちるのを待つ時分である。痩身に粗末なあわせを纏った姿は、冷や風でたもとが翻るたびに見た者は誰もが寒気で身を竦めた。挙げ句に手入れのされない月代さかやきは朽ち果てた茅葺かやぶき屋根に取り憑いたぺんぺん草を思わせて、それがだらしなく風でゆらゆらと踊るものだからみすぼらしいことこの上なかった。そのように落ちぶれた浪人と見紛う体でも、清左衛門は溌剌と片手に提げた包みを楽しげに揺らし歩むのである。
「あっ、これは組頭さま」
戸口で出会い頭にかち合った足軽は慌てて頭を垂れるが、「お袋さまは健在であるか」などと、気さくに声をかける。すべからくこうであって、これなるが清左衛門の常なる振る舞いであった。
清左衛門はとある戸口の前で足を止めると、にんまりと頬をあげた。
「津島じゃ。籐八とうはちはおるかの」
その声に、戸口を鳴らして駆けでたのは藤八郎である。
「これはこれは組頭さま。お疲れさまでございます」
「ややこが生まれたそうじゃの。祝いを持って参った」
恐縮する藤八郎は、包みを差しだす清左衛門の節くれた手に目が及ぶと、有り難さからうるうると涙を零した。
『組頭さまの手は神の手じゃ』
足軽たちはそうよく口にする。足軽は、城から下賜かしされる十五石ではとても暮らせずに百姓働きを手伝っている。米を得てもすぐさま金子に換えられて年寄りの薬代などに費やされるから、自ずと足軽が口にするのは百姓からもらい受けた雑穀ばかりであった。あるとき、清左衛門が心から残念そうに足軽へ漏らしたそうだ。
「わしも百姓家へ働きに出たいものじゃ。されど組頭の身分がそれを許さんのでのぉ」
そうしたことから、わずかばかりの庭先に野菜を植えて暇さえあれば土をいじる。爪先は黒ずんで割れが入り、ひび割れた手指はおよそ武士のものとは思えなかった。
『組頭の手は百姓の手じゃ』
それがまた足軽たちから好かれる所以ゆえんである。
「わずかで済まんが受け取ってくれ」
包みの中身は清左衛門が受けた扶持米である。米を口にできない足軽たちを心得た清左衞門ならではの心遣いであった。城から下された扶持米は温存し、こうしたときに惜しみもなく手下へ与える。そして自らは畑で産する野菜で飢えを凌いでいた。
「ありがとうごぜえます」
歩みでた藤八郎の母は、ひしと袋を胸へ抱くと仏を拝むように手を擦り合わせて、清左衛門が立ち去る道筋をその姿が辻の角へ消え入るまで頭を下げ続けた。そうした仏の如き振る舞いをする清左衛門であっても、城の上役からは滅法受けが悪い。
『津島の家も清左の代で終わりよのぉ』
そのように見下すのは一人・二人ではなかった。清左衛門は四十に手が届こうとするが今だ豆腐にカビが生えた独り身で、父から受け継いだお役目と三十石は、風前の灯火ならぬ煮え湯に投じた菜っ葉の如く行く末が按じられた。それでも本人からして、「津島はわしの代で終わりよ」などと、言って憚らないのだからどうしようもない。ただ一人、そのような清左衛門を気に掛けるのは上役の鳴海平助ただ一人である。平助は清左衛門が年若なころから幾度となく嫁を宛がおうと腐心をしたが、何故か清左衛門は首をたてに振らなかった。そうした平助の心痛を知ってか知らずか、「今年はよい茄子ができた」などと、茄子を諸手で掲げては歯を見せる清左衛門であった。

城下のとある辻の裏方。人目をはばかたむろした侍が声をひそめて語らうのは何やら剣呑けんのんな話である。
「殿にも困ったものよ」
「先代さまがご苦労の末になし得た蓄財を食い潰しておられる」
恐れおおくも領主へ向けた雑言であった。太平の世であるはずが、このようなやり取りは城下のあちらこちらで耳に入った。
殿とは九代・津軽寧親やすちかであり、先代とは八代・津軽信明のぶはるを指している。津軽家は類い希な智謀で南部家から独立を果たした藩祖・為信が没してから、賢君と讃えられた当主はごくわずかで、凡庸ぼんようの者が代々家督を継いだ。それであるから、相次ぐ天災と蝦夷地勤番の多大な費えに為す術なく財政は傾いて、公儀や豪商からの借財は家が転覆するほどの額に及んでいた。そうした苦境に現れたのが七代を務めた信明の父・信寧のぶやすである。信寧は倹約を是として領内の殖産に努め、その甲斐あって累積の借財を大幅に減らすことに成功した。その偉業は息子・信明に引き継がれ、父の背を見て育った信明は、その思想そのままに財政の立て直しに没頭した。信明は向学の人であり、米沢の上杉鷹山ようざん公に教えを受けてその才知は父をも凌いだと伝えられる。そのような若き当主の姿は家臣の希望そのものだったが、寛政三年に信明はわずか三十の若さでこの世を去った。信明には嗣子ししがなく、それで浮かんだのが分家黒石の寧親であった。
寧親は家督を継いで間もなく、堀の外へ立ち並ぶ侍屋敷を一斉に立ち退かせ、それで得た八千坪に及ぶ広大な敷地に寄宿寮を備えた大掛かりな学舎を設えた。要した費えは莫大であったが、学舎設立は諸国の流行はやりであるし歴代当主の宿願でもあったから大方の家臣はやむなしと目を瞑った。
しかし、寧親はそれに留まらない強欲の人だった。分家から本家の当主に成りあがった男のどこにそのような野心を秘めていたものだろうか。公儀への参政を目論んだ寧親は、こともあろうに息子・信順のぶゆきの嫁に要人の姫を迎えようとまいないを撒き始めた。
津軽家と交誼こうぎのある近衛家から右大臣・近衛基前もとさきに目を付けた寧親は、大枚を積むだけ積んで娘との婚約にこぎつけたが、敢えなく基前の娘は他界してしまった。
近衛家を諦めた寧親は、節操もなく徳川家へみよしを向け直した。そのような寧親になびいたのが一橋家から田安家に入ったばかりの徳川斉匡なりまさであり、斉匡は娘の鋭姫を差しだすことを約束した。しかし、あろうことか婚儀を目前にして鋭姫までもが病没してしまったのだ。すでに大枚を懐にした斉匡はさすがに気が咎めたのだろう。継いで九女・欽姫を嫁がせることを約束し、それに寧親はさらなる礼金で応えた。そのころになると津軽家の金蔵は底をつき、皺寄せはすべて領国の民百姓へ向けられた。民に課す税は留まるところを知らずに増え続け、堪りかねた百姓たちは城下膝もとの鬼沢村で一揆を起こした。首魁の藤田民治郎を先頭とした百姓の群れは二〇〇〇を数え、蓆旗むしろばたを高々と掲げて弘前城へ押し詰めた。哀れなのは百姓だ。彼らの願いは明日の糧とわずかな税の減免で、ただそればかりを願い嘆願に赴いたにも拘わらず、鎧・具足に身を固めた軍勢に蹴散らされ、捕らえられた民次郎は責任を負わされ敢えなく首を落とされてしまった。
寧親は、騒動の源は己にあると知っていたはずだ。しかし、改心をするどころか輪をかけて遊興に耽るようになり、領内を参勤さながらの大行列で練り歩き本陣とした屋敷で肉林にふけたかと思えば、北海に面した深浦へわざわざ赴いて千畳敷の奇岩を肴に豪勢な酒盛りを行った。そのような振る舞いを見かねた家臣が寧親を諫めたが辛言を口にする者は悉く退けられ、甘言を吐いて自らの出世を目論む狐狸こりやからばかりが取り立てられた。君暗くして臣諂しんへつらうの故事そのままの有様に、津軽家の行く末を按じる者が現れるのは道理なことであった。

津島清左衛門の屋敷は、足軽長屋にほど近い小人町こびとちょうにある。敵襲に備えて高く設えた生け垣に囲まれた屋敷には、冠木門をくぐると侍二人が素振りをすれば精々のささやかな庭があった。父が他界してからそれを畑とした清左衛門であるが、父が愛でた松の木二本はそのままに残していた。清左衛門はその節くれた枝へ立て掛けた梯子へ登り、縄で枝を結わえていた。雪が積もれば松の枝などひとたまりもなく折れるからだ。
「津島さま。お忙すうどごろ申すわげもありません」
眉間にしわを寄せながら枝を引き寄せていた清左衛門は、控えめに見あげる六尺半纏はんてんの小者へ目を落とした。
「そなたは鳴海さまの――」
「へい。弥助でごぜえます。旦那さまが津島さまさご足労ば願いたいと申されでおりますれば」
結わえようとしていた枝へ目を向けた清左衛門であったが、梯子を下りて弥助と相対した。
「しかと承った。間もなくお伺いすると鳴海さまへお伝え下され」
菱の型に広げた股引の股を閉じることなく、ひょっこりと頭を垂らした弥助は慌ただしくも小走りで門を駆けてでた。
清左衛門は、衣についた枝葉を払うと襟もとを鼻へ引き寄せて染みついた臭いに顔をしかめた。屋敷へ入り父から譲り受けた箪笥たんすを引いてみたが、気の利いた衣などあるはずもなく吐息一つでそれを押し戻した。はたと眉を上げて気付いたのか、手指に唾を吐きつけて髪を撫でつけたものの、茫々とのびた毛は手強いもので一向にまとまる気配がない。諦めた清左衛門は、土間へ置かれた樽から何やら取り出して晒し布で丁寧に包み込み懐へ入れると、太刀を帯へ差して屋敷を後にした。

馬廻り役・鳴海平助。
有事の折には清左衛門が率いる足軽組を差配することから、上役として清左衛門に目を掛けている。清左衞門の訪れに平助はその小太りな体を式台にのせて出迎えた。
「おう来たか。まずは上がるがよい」
平助は傍らの若侍を陽の手で制し、自ら清左衞門を奥へと導いた。
座敷へ入ると、平助は上座へ腰を下ろし清左衛門は下座へ平伏をする。
「構えんでよい。面を上げてくれい」
身を起こした清左衛門をしげしげと見た平助は、亀がこうべを引くように短い首根を肩へ沈めて吐息を漏らした。下禄とは言え組頭を名乗る男が浪人さながらに月代すら整えていないのだ。その上、衣は自ら手直しを施したのか無様な繕いは目をあてられたものではなかった。
平助は、咳払い一つを放って気を取り直した。
「ほかでもない。当家は蝦夷地永久勤番と呼ばれる重い役目を申しつけられている。その上、殿は大所帯の学舎を設えたかと思えば将軍家との縁組みに奔走した経緯いきさつはお主も聞き及んでいることだろう」
「存じております。お家はふたたび公儀から多額の借財を受けたとか」
平助は頷いた。
「昨年は殿が危うく他国の暴漢に襲われるところであった。この上、物騒なことが起きなければよいのだが」
まつりごとが腐れば自ずと隙が生じる。昨年、南部の狂徒が参勤途上の寧親を狙う謀りが露呈して騒動になったばかりである。それに共謀した津軽家の家臣が出奔しゅっぽんして、追っ手を放ったものの未だ捕らえられてはいない。一事が万事。あれもこれも寧親の放蕩が招いた災いだと平助は言いたいのだろう。
「近ごろよからぬ噂を耳にしての」
「よからぬとはどのような」
平助はそう返した清左衛門の目を覗き見たが、一点の淀みもなく平助を見据えている。
「殿は放蕩の限りを尽くし、引き立てる家臣は甘言を吐く者ばかりじゃ。身を挺して殿を諫めようとした者はことごとく役を下ろされる始末。これではどうにもならん」
「鳴海さまは殿が代を退くべきだとお考えでありますか」
「退くなどと――わしが申したいのは、殿や私腹を肥やす連中を誅殺せんとする一派がいると言うことだ。清左。お主は何か聞き及んではおらぬか」
「重々承知でございましょう。拙者は政にとんと思うところがありません。仮に誘われても、それへ命を賭す気など毛頭ありませぬ」
もあろうと平助は頷いた。誰に汲みすることなく随意に生きる。それが清左衛門なる男だが、手垢がつかない男だけにそれを利用する者が現れないとも限らない。
「鳴海さまはどうされますのか」
「ど、どうするも何もわしは殿にお仕えする身。それだけじゃ」
清左衛門は、それへは返さずに両の手をついて同意を表した。
頷いた平助は、もはやよしと思ったのか柏手さながらに二度ほど手を打った。それに虚を突かれたのは清左衛門である。平伏の体のまま振り返った肩越しの目は、障子で隔てられた縁側へと向けられた。すると、間を置かずに足袋を擦る音が迫り障子にその姿を映しだした。しとやかな絹擦れを立てる影は、膳らしきものを手にして障子戸の中程で膝をつく。
「失礼を致します」
影は、そう断りを入れて障子戸を開けた。
その刹那に歯噛みを露わに口もとを歪めた清左衛門はぎりりと平助を睨むが、当の平助は涼しい顔で目を逸らし膳を運ぶ女を眺めている。清左衛門は女を見るのを憚った。が、つつましく結い上げた丸髷まるまげを認めると安堵からほっと息を漏らした。性懲りもなく見合いを仕掛けたのだとする疑念はとんだ濡れ衣で、この女は誰ぞの女房なのだ。
「これなる菊殿の手料理じゃ。ほれ、膝を崩していただくがよい」
菊は手際よく膳を備えて蓋を返すと、甲斐甲斐しく上座の平助から先に酌をした。それは諸事を心得た女房の姿そのものである。そうとは知っていても、菊が徳利を差し伸べると清左衛門の目は杯に落ちるばかりで、前屈みとなった菊のうなじから匂い立つ女の香りに目眩を覚えた。
「菊殿は馬場殿の縁筋での。馬場家と言えば馬廻りの本家本元。その縁で菊殿はよく遊びに参る。そなたが参ると伝えたところ、是非にも手料理を振る舞いたいと申してな」
「それはまた――ありがたく存じます。これはたらでござるな」
椀からころ合いのよい湯気が立ち昇っている。これは平助が呼んでからよそったはずであり、菊はよほどに手際がよいようだ。
「鰺ヶ沢の鱈をもらい受けたのじゃ。そなたとこうして膳を並べられたのだからよい機会であった」
「これはまた脂の乗りが格別ですな」
上役を前にして音も露わに鱈へかぶりつく清左衛門に、平助は片眉を上げ菊は袖を口もとへ寄せた。
「そうであった」
唐突な清左衞門の声である。
如何如何いかんいかん――失念するところでござった」
そう言って徐に懐へ手を差し入れた清左衛門は、何ごとであろうか身を反らせて幾度も体をよじらせるではないか。
「津島。お前何をしておる――」
平助の問いと同じく菊の悲鳴が座敷の障子を震わせた。懐からにょろりと出でた尺を超すものは、巻き締めた晒し布を土色に染めている。座敷には濃厚な鱈の香りを凌駕する、つんとしたぬかの臭いが立ち籠めた。
「燻しに燻してそれから幾日漬けたものやら、薄く切り分けて箸をつければ格別でござる。鳴海さまへ是非にもとお持ちしました」
「清左。お前ずっとそれを懐へ入れておったのか」
兎も角、遠慮もなく鼻をつまむ平助に大根の燻し漬けを渡し得た清左衛門は、振る舞われた馳走を平らげてさっさと屋敷を後にした。お家の憂いを口実とした平助の計らいなど、清左衞門にはとんと通じなかったようだ。

雪は青森へ先に落ち、翌日には弘前の城下へも落ち始めた。絶えなく降る雪は真白のすだれとなって城南に屹立する最勝院五重塔を朧にさせた。北へ目を向けても城の姿はまるで見えず、城下はすっかりかすみの中へ消え失せていた。清左衛門は白く息をたな引かせると、足を八幡宮へと向けた。
津軽一宮いちのみやに数えられる弘前八幡宮だが、大振りの中、参道に人影はまばらであった。参道の石敷きは雪の下となり、代わりに人の踏み跡がまっすぐにのびて拝殿へ導いている。その踏み跡を清左衛門へ向けて歩み来るのは参拝を終えた武家の家族だろうか。番傘を手に颯爽と背筋をのばして歩む男は、傘のしたからまっすぐに清左衛門を見詰めていた。奥方は御高祖頭巾おこそずきんに伏し目で女児の手を引き、その子が羽織る格子柄の綿入れ半纏の赤が白く煙る参道に生き生きと映えていた。行き擦りの折、双方の男が足を止めた。
「津島殿。お久しゅうござる」
深々と頭を垂らしたのは、勘定方与力・相馬光之進で清左衛門とは當田とうだ流剣術道場での知己である。雪空でも尚、着流し一枚の貧相な清左衛門へ、しっかりとした身なりに合羽を着込んだ光之進が下手に頭を垂れるのは傍目からすると珍妙な眺めに違いない。
「何年振りであろうか。相馬殿の活躍をよく耳にしておるぞ」
「十年。津島殿が去られてから十年を数えました。一門諸手をあげて歓迎を致します故、どうか道場へお戻りくだされ」
「ありがたい話ではあるが、そればかりはお断り――」
「あれは試合でのこと。なにも津島殿が気に病むことはございませぬ」
「わしは剣術を捨てたのじゃ。太刀を抜くのは殿の命で戦をするときのみ。そう心に決めておる。それでは失礼」
別れしな、頭巾越しに童の頭を撫でた清左衛門は一人拝殿へと向かった。
鈴緒を振り、節くれた手を合わせた清左衛門の顔は常には見せない険しいものであった。立身を望むわけでもなく飄々と生きる清左衛門の何がこうもさせるのだろうか。

雪は幾日も止まなかった。城下はすっぽりと雪に覆われて、目抜きから外れた筋道は藁沓わらぐつなしでは歩めないほどに深くなった。このころになると偉丈夫な清左衛門であっても、足軽から譲り受けた綿入りの刺し子へみのを重ねるのが常となった。番傘を片手に合羽かっぱで辻を歩む家臣らは、「津島殿。どこか遠出でもするのでござるか」と、清左衞門を揶揄やゆするが、それでも平気の平左で大股に藁沓を蹴り上げて歩くさまは雪切りに追われる商家の手代たちの手を止めさせた。〔お気らく清左〕は今や町人にも顔が売れ、見る者の顔を綻ばせた。
「皆、息災でめでたきことよ」
手下の戸口を一軒ごとに廻り、本人とその家族の様子を確かめる。本来なら足軽が上役へ歳暮の挨拶に訪れるのが倣いであるが、清左衛門の組では絵札を返したように天地が逆さである。
「もしやすれば春には蝦夷地勤番の命が下るかも知れん。皆、存分に正月を楽しんでくれ」
そう言い残し戸口を後にした長屋の先で、菅笠の侍が清左衛門を見据えていた。二人の目が合うと、侍は笠を上げて一礼の後に歩み寄った。
「折り入って話がございます」
「相馬殿。道場のことであれば――」
この者。八幡宮の参道で清左衛門と出会した男である。相馬光之進は清左衛門の返しを被りで遮ると、わざわざ家並みから外れた木立の陰へと導いた。
「乳井殿が領内に戻っております」
「孫六が――相馬お主まさか奴と」
光之進は、臆しもせずに頷いて見せた。
乳井孫六郎。
かつて清左衛門が當田流剣士として名を売り出したころ、孫六郎は兄弟子で二人の腕は皆が及ばない高みで拮抗していた。清左衛門が道場を去りし後、孫六郎は師範にまで上り詰めたが、寧親襲撃に加担したと疑いが掛かるや姿を眩ましていた。
「津島殿。乳井殿は世に言われる謀反人などでは決してございません。殿の放蕩ほうとう振りはご存知でしょう。このままではお家が潰れる。乳井殿の行いは、動けぬ我らに代わって天誅の矢を放とうとしたまででござる」
「天誅などと大それたことを。お主。孫六と繋ぎを取っているならば謀反に加担しているのか」
「我らは謀反などとは考えておりませぬ。愚君とその取り巻きを誅殺し、信順さまへ世を繋ぎとうござる」
清左衛門は唸りをあげずにはいられなかった。光之進は決して猛なる男ではない。その光之進をここまで駆り立てるのは、勘定方だからこそ分かり得るお家の窮状があるに違いない。
「津島殿。我らにお味方くだされ。乳井殿も是非にもと申されておりまする」
「そのような話ならばきっぱりと断る。わしはこの身相応に政には関わらぬと決めておるのだ」
光之進は、わなわなとさせた両の手で袴を握り絞めたが、もはやこれまでと観念をしたようだ。
「津島殿と見込んで打ち明けたること。決して他言は無用でござる」
そう言い残して足早に立ち去って行った。
鳴海平助の杞憂が現実になった。當田流の光之進が語ったからには門派でそれに加わる者もいるのだろう。それに思いが及ぶとお気楽な清左衛門でさえ、さすがに暗然たる面持ちにならざるを得なかった。
屋敷へ戻った清左衛門は冠木門の前で足を止め、はてと首を傾げた。吹きさらしの門の内へ真新しい踏み跡が続いている。父の代から仕えた喜助の死に水を取って以来、小者を雇おうとしない清左衛門である。客など寄りつかない屋敷に踏み跡があるのがどうにも解せない。
門の内へ入ると、それと同じく戸口の前で女が振り返った。どこぞの使いであろうか。寒空に頭巾の女は胸もとに包みを抱えていた。
「お帰りになられてよろしゅうございました。お留守だと思い戻るところだったのでございますよ」
「はぁ、それはそれは。本日はお使いでござるか」
「いいえ。使いと言う訳ではございませぬ」
そう言って女はまんじりともせずに清左衞門を見あげるので、清左衛門はますます戸惑って雪がのし掛かる松の枝を見あげる素振りで目を外した。城下に聞こえたお気楽清左が女一人に手を余している。
「あら、また雪が落ちて参りましたわね」
そう言って、眩しげに空を見あげる女の顔は雪のように白い。
「あ、相済まぬ。戸口の前で失礼を致した。中へお入りくだされ」
戸口を開けると土間のすえた臭いが漏れでたが、清左衞門は構わず女を招き入れた。間口三間ほどの土間が囲炉裏を置いた板間へかぎのように二方を接している。この居間となる板間のほかに居室は二つばかりで、それを仕切る板襖は閉め切りで昼中でもどんよりと暗く見通しが悪い。手仕事をしたのだろうか。散らかり放題の藁や板の有様は、やもめにあらずとも男の一人暮らしは蛆が湧くを絵に描いたような屋敷であった。
「このような有様でござる。お気をつかい召されるな」
そう言って板間へあがった清左衛門は、板きれを土間へ蹴散らすとぺたりと綿の潰れ尽くした座布団を敷いて、女へそこに座れと言った。
「冷えたであろう。火を起こす故お待ちくだされ」
紙縒りを手に囲炉裏へ屈んだのはよいが、傍らの女を気にするせいか、いつになく要領が悪い。生来器用を自負する清左衛門だからこそ、手もとの紙縒りを使い果たすと狼狽え振りが露わになった。
「わたくしがして差し上げましょう」
女は清左衛門に紙を求めると、受け取った紙を器用に切り分けて火起こしにかかった。紙縒りに灯した火を両の手で庇いながら大鋸屑おかくずへ移すと、瞬く間に白煙が立ち昇った。
「ほぉ――器用なものでござるなぁ」
「火はいつも起こしておりますから」
うまいことに薪へ火が移り、樹皮の狭間から緋色の炎がゆらゆらと身の丈をのばすと小気味のよい音を立てて火の粉が散った。その成り行きを見詰める女の頬は橙に美しく染まっている。そうした女がほっとしたように笑みを浮かべて顔をあげるまで、清左衛門はそれに見惚れていた。
「して、本日はどのような御用向きで」
「用事などございませぬ」
「用がないと申されるか――」
頷いた女だが、何ごとか思いだしたように慌てて包みを解き始めた。
「お口に合えばよいのですが。津島さまにお煮染めをお持ちしたのです」
見ず知らずの女から手料理を振る舞われるなど益々に訳の分からない清左衛門は、困り果てて眉根をあげた。その様子に女は、清左衞門が自分に見当を付けかねていることをようやく覚ったようだ。あらためて向き直ると膝を正して頭を垂れた。
「津島さまのお作りになった大根のお漬物。おいしくいただきました」
背筋を鞭で打たれたように目を見開いた清左衛門の有様に、女は思わず口もとへ袖をあてた。
「鳴海さまのお屋敷で――そうじゃ、馬場さまのご縁者でございましたな」
「はい。菊でございます。馬場と申しましてもうちは分家の分家。お気遣いは無用でございます」
『いやぁ参った』と、清左衛門は胸奥で叫びをあげただろう。鳴海の屋敷ではろくに菊の顔を見ておらず、ただ一つ心に残るのは例えようもない女の香りくらいなものである。あらためて見る菊は降り落ちて間もない雪のような白肌で、語る鷹揚おうようで桃色に染まる頬が例えようもなく美しい。年のころは三十路を過ぎたばかりだろうか。このような器量よしを妻に持つ男は幸せ者だと、清左衛門はしみじみと思った。
菊は臆面もなく辺りを見まわした。奉公人を雇うことなく男一人ではこうなり果てるものかと思っただろう。散らかし放題は序の口で、棚や桟には塵が一分も二分も積もっている。臥所へ至る板戸を開けたならさぞやおぞましき眺めだろうが、菊はそれを意に介さぬように重箱を清左衞門の膝もとへ寄せた。
「お煮染めを召し上がってくださいませ」
「いや、あとでゆっくりと頂くとしよう」
そう返すと、菊があからさまに長いまつげを伏せたものだから、清左衛門は弱り果てて重箱の中を覗いて見せた。几帳面に丸く仕上げた芋。牛蒡・人参・大根は、丁寧に角を除いている。清左衞門は、重箱の隅へさいの目に積まれた凍み豆腐を箸に取った。控えめな塩加減は申し分なく、しっかりと出汁だしがしみている。必要に迫られて自ら料理を嗜む清左衞門だからこそ、菊の細やかな仕事振りに感服をした。
「いやぁこれは美味い。その若さでよくもこのような味を出せるものだ。出汁は煮干しでござるな」
「はい。鰹にはなかなか手が届きませんから。それに、わたくしはもう若くなどありませんわ」
頬を染めた菊は、また訪ねてもよいかと清左衛門へ問い掛けた。主人を持つ女が独り身の男を訪ねては悪い噂が立つだろう。それでも否と首を振れなかったのは、菊とのひと時に例えようもない憩いを覚えたからだ。

それから菊は、たびたび清左衛門の屋敷を訪れるようになった。清左衞門が夕餉の仕度をしようと腰をあげたころ合いに戸口を叩くと思えば、ときには留守に訪れて勝手に掃除をしたりもする。襷掛けも凜々しく立ち働く姿に恐縮しきりの清左衞門であったが、菊の訪れに二・三日でも間があくと、母を待つ童のように落ち着きを失って外を眺めたりした。
しかし、清左衞門にとって奇跡とも言える蜜月はあまりにも短かった。杞憂の通り、菊の訪れはたちまち噂となって、お気らく清左に女ができたと手空きの肴にやんやともて囃され、手下の足軽までもが屋敷を覗き見る始末だ。
自戒の念に駆られた清左衞門は、意を決して鳴海平助の屋敷を訪れた。
「ほう――あの菊がのう」
諸腕を袖へたくし込んだ平助は、まんざらでもない笑みを浮かべた。
「菊はよほどお主を気に入ったらしい」
「気に入ったなどと戯れ言を申されますな。菊殿はご主人のある身。このままでは先方の家に迷惑が掛かります」
「はて、わしは菊が人の細君などとは一言も話しておらんが」
しばし、清左衛門は呆けたように言葉を失った。
「し、しかし菊殿は丸髷でござるぞ。あれなるは――」
「菊は不憫な娘でのう。嫁いだ先の主人が早死にをしおってな。義理堅い菊は、それでも先方の親御の世話をしていたが、それではあまりに菊が哀れだとしゅうとが心を鬼にして追い出したのだ」
「左様でございましたか――」
あの日はやはり、お家の大事を口実とした菊との顔合わせだったのだ。
健気に屋敷へ通い、洗濯どころか清左衞門が無様に直した衣を繕い直した菊である。さぞや細やかに親の面倒をみただろう。菊の好意についつい甘えた清左衛門であったが、独り身と知り得た今でも『それでは拙者が』と、受け入れる気にはどうしてもなれなかった。
「鳴海さま。菊殿へ二度と拙者の屋敷に訪れぬようお伝え下され。平にお願い申し上げまする」

十二月の暮れ。
城下の空へ、ゆっくりと間をあけて太鼓の音が響き渡った。往来を歩む数多の人々は空を見あげたが、侍たちの顔は城へ向けられた。二の丸のやぐらで打たれた太鼓は重臣の登城を命じるものだ。
主立つ重臣が本丸御殿・四季の間に集められた。領主寧親は江戸へ出府で不在である。上座に城代の現れを認めて重臣一同が平伏をすると、それを頷きながら見回した城代・津軽頼母たのもが口を開いた。
「師走に慌ただしきときであるが、備えもある故、来春に蝦夷地へ赴く者を申し伝える」
頼母の目配せに応じた控えの者が膝を擦り幾分前へ出ると、幾重にも折られた書状を開きながら名を読みあげた。淡々とした読み上げを瞑目しながら聞き入る者、膝へつがえた腕を張り眉を寄せる者、それぞれが遥か蝦夷地に思いを馳せた。
「選ばれた者は怠りなく備えをするように、また、国もとに残る者は労を厭わずそれを助けるべし」
一同とともに平伏をした平助は、神妙な面持ちの同胞はらからと違い安堵の面となっていた。幸いなるかな、平助の馬廻り組と清左衛門の諸手足軽組は蝦夷地派兵を免れていたのだ。
公儀から命じられた蝦夷地永久勤番と呼ばれる役目は、毎年、蝦夷地へ数百に及ぶ兵を派遣する津軽家に課せられた重い足枷である。この多大な出費に加えて、翌年には嫡男・信順と徳川斉匡の娘・欽姫との婚儀を控えている。徳川家との縁組みは寧親が大枚を積んで成し得たものだけに、寧親は金に糸目をつけずに家臣が目を剥くほどに華美な結納の品々を誂え始めている。重臣たちを叱咤する頼母でさえ、金子のやり繰りに頭を悩ませているのだ。
下知を終えた頼母は、一握りの家老を菊の間に集めた。
「各々方も察しているだろうが、若党の一部が不穏な動きをしておる」
頼母の言葉に膝を揃えた家老たちは互いを見やった。先年の寧親襲撃事件より、あらぬ噂が飛び交っているのは周知のところだ。
「江戸には殿の警護を厳にせよと申し伝えてあるが、重責を担うそこもとらも決して油断なきようにせよ」
それへ一人が口を開いた。
「聞く処に寄れば、南部は公儀から厳しい詮議を受けているようでござる。さすればこの上騒動など起きる心配は無用かと」
頼母は大きく被りを振った。
「そもそもこの謀りに南部宗家は絡んでおらぬと踏んでおる。奴らとて阿呆ではない。他家に私闘を仕掛けたならお取り潰しは必定。家名を賭してまで殿を襲う覚悟などあるはずもない」
「しかしながら――」
「大方、血気盛んな若侍の仕業だろう。されどその若さほど恐ろしいものはない。前後の見境なく、これと信ずれば命など顧みずに刃を振るうものだ。よいか。それぞれに心利いたる者に探りを入れさせよ。謀反の一派へ先手を打つのじゃ」
居並ぶ家老の中には、相馬光之進が語ったように寧親に取り入り私腹を肥やす者がいる。それらにとって寧親の代が続くほど身は安泰であり、決起を目論む若党などは言語道断な賊でしかない。

雪国の夕暮れは陽が傾くほどに青みが増す。それが月夜ならなおさらで、真円の月が浮かぶ今宵は城下を取り巻く雪原が仄かに青い光を放っていた。
「ごめんくださいませ」
その声に、清左衞門は囲炉裏の傍らに据えていた腰を浮かせた。菊は清左衛門が平助の屋敷を訪ねてからぱたりと寄り付かなくなっていた。それは菊が清左衛門の意向を聞いたからに違いなく、束の間に咲き乱れた花の幻に捨て置かれた清左衞門は、煢然けいぜんたる静けさに立ち帰ろうと努めていた矢先であった。
「ごめんくださいませ。清左衛門さま。菊でございます」
止むなしと清左衛門が戸口を開けると、月光に照らされた菊の面が白く浮かびあがった。
「こんな夜更けにどうされたのだ。女子おなご一人で歩く刻限ではあるまい」
「申し訳もございません。わたしは――」
迸る菊の思いを遮るようにずいと表へ出た清左衞門は、「一人で戻るには剣呑故、拙者がお送り致す」そう口を真横に申しでて、背を見せるや勝手に歩み始めた。頑なな清左衞門の態度に、菊は言葉を継げず後に従うよりなかった。
わずかな月明かりを高い生け垣が遮り、道は暗い闇に落ちていた。行く手が定かに見えず、しっかりと目を凝らさなければ歩むのもままならない。勢いで先を歩んだものの、清左衞門は提灯を持たなかったことを心底後悔した。
「菊殿。このような夜道を決して一人では歩かぬと約束して下され」
「清左衛門さま」
「それと、鳴海さまから話は聞いたであろう。拙者は斯様かような男じゃ。早々に見切りをつけられた方が身のためじゃ」
「見切りをつけるなどと――」
それきり二人の言葉は途絶えた。その沈黙は闇夜にも増して重く、耳へ届く固い雪の踏み音さえ、沈黙を埋めるには叶わなかった。

小人町を抜ける辻へ入るや、生け垣に遮られていた月光が差し込んで見通しが開けた。
清左衞門の足が止まった。菊がその肩越しに行く手へ目を凝らすと、闇間に人影がうごめいているように思えた。
「酔狂なものじゃ。このような夜更けに女連れとはな」
闇から放たれた声へ応えるように下卑た笑いが幾つか湧き起こった。
清左衞門は咄嗟に背後の気配を窺った。行く手に二人、そして背後を三人に挟まれている。男らの面貌は月明かりに朧だが、辻には渦を巻くように殺気が満ち始めた。
「今宵はお主の存念を確かめたいと思ってな」
清左衛門は左のかいなをのばして菊を引き寄せた。
「存念だと。お主らに語ることなどない」
雪が舞い始めた。
二人を囲み間合いを窺った五人は、勢いを増した雪に押されるようにゆっくりと腰を沈めた。
「このままではお家が潰れる。これ以上、殿の放蕩を見逃す訳にはいかんのだ。どうじゃ津島。我らに力を貸さんか」
「断る。たとえ思うところがあろうとも、力ずくで主君を退けようとする輩には力を貸せん」
「そこまで言うか――ならば止むを得ん」
男らは太刀を斜に引き抜くと沈めていた腰をのばして直立に転じ、太刀を胸元ですっくと立てた。五人同様のその構えは雪間に立つ仏の像を思わせた。
「お主ら卜伝ぼくでんの一派だな」
そうだとばかりに一人が歯を見せた。印と呼ばれる攻守一体の構えは、弘前剣術三派に数えられる卜伝流が多用する。五人は二人を中にしてゆっくりと廻りながら斬り込む隙を窺った。清左衛門もまた太刀を抜いたが、男らとは違い肩へ太刀を立てて八相の構えとした。摺り足で円を辿る敵に合わせてたいを回す。相手が繰り出すであろう初太刀の一閃が幻となって斬りかかった。清左衞門が読む太刀筋は、そのどれもが後背に隠れる菊を掠めていく。
「菊殿。わしの合図で地に伏せなされ」
卜伝流は二の太刀で渾身の太刀を振るうことが多い。出稽古で学んだ太刀筋を清左衛門は信じた。
「今じゃ」
菊が身を伏せたのと同じく、男らは地を蹴るようにして斬りかかった。それと同じく一人の懐まで踏み込んだ清左衞門は、相手の袈裟斬りを躱して素早く左へ回り込むと脇腹を蹴り飛ばした。それへ間断なく繰りだされた他者の突きを間一髪で躱し、もんどりを打つ相手の太刀を上段から打ち据えると、相手が堪らず膝をついた刹那に峰へ返した太刀でしたたかに肩を打ちつけた。呻きとともに相手は雪に伏して、先に腹を蹴られた者は肋骨あばらが折れたのか身を倒したままもがいている。
残るは三人。
三人とも揃えの雄叫びで斬りかかるが、清左衞門が巧みな歩法で左へ左へと廻りだし、相手は同時に斬りかかるのが容易ではなくなった。清左衛門はその戸惑いの間隙を縫って先頭へ向けて踏み込み下から払い上げた。脇を打たれた男は膝をつき、懸命に立ち上がろうとするが生まれて間もない馬のように力なく尻を落とした。
残り二人。
清左衛門がずいと間合いを詰めると、男らは一歩・二歩と後ずさり傍らに伏した仲間へ目を泳がせた。濛々と立ち昇る白い息とともに二人の殺気はどこかへ失せていた。
「いずれも峰打ちじゃ。退散するなら仲間を連れて帰れ」
二人は仲間を抱え起こすと、降り止まぬ雪に身を隠すようにして逃げ去った。
恐る恐る身を起こした菊が衣についた雪を払い始めると、清左衛門はいつもの清左衛門となり、お太鼓に纏わり付いた雪を払うのを手伝った。その鬼か仏かの変わりように、菊は平助の言葉を思い起こした。
『かれこれ十年も前のことで覚えておる者は少ないが、津島は當田流でも二双の壁と呼ばれた剣客であった。あいつは誠の姿を隠しておるのじゃ。そなたの目で清左衞門なる男を見定めるがよいぞ』
二人はふたたび歩みだした。猛者五人を打ち負かしたにも関わらず、清左衛門は息の一つ乱してはいない。目の当たりにした光景はまるで夢のようだ。菊はそう思った。

二人が暴漢に襲われた日から幾日か。
清左衛門が式台へ腰を下ろして藁を結っていると、鳴海家の小者・弥助が訪れて平助の言葉を伝えた。
「鳴海さまは急ぎ参れと申されたのだな」
「左様でごぜえます」
そう答えた弥助は、板目の節に似た小さな目を右に左へと向けて鴉さながらの尖り口をして見せた。
「弥助。如何したか」
「はぁ随分とその、お屋敷が――」
「屋敷が片付いているとでも申すのか」
すると、弥助は二・三欠けた歯を見せて後ろ首を掻いた。菊が幾日も費やして清めあげた屋敷を早々に散らかすのは忍びないと、清左衞門は何をするにでも小まめに片づけていたのだ。
平助の屋敷を訪れた清左衞門は、もしやの計らいで菊が居るのではないかと目の隅で姿を探したが、座敷での語りでそれは思い違いであることが分かった。
「謀反を企てた奴らは悉く捕らえられて成敗されたようじゃ」
腕組みの体で、眉間へ鑿で掻いたように深い皺を寄せた平助は言葉を継いだ。
「上役からは他言無用とされたが、お主には伝えたほうがよいと思うてな」
「相馬、勘定方の相馬光之進も加わっていたのでござるな」
「津島。お主何故それを知る」
清左衛門は魂の抜け出たような息を吐き出すと、光之進との経緯いきさつを語りだした。それが卜伝流の暴漢に襲われた話に及ぶと、さすがの平助も唸らざるを得なかった。
「まったく強い気質なものよのぉ。あ、いや菊の話だ。菊は時折屋敷を訪れるが、そのような恐ろしい目にあったなどと、ただの一言も漏らしてはいなかった。津島。悪いことは言わん。菊を取り逃がすなよ。菊は千両を積むに相応しい女じゃ」
抜き身の剣客に囲まれて命を獲られてもおかしくはない局面だったにも関わらず、菊はそれを胸の内に秘めていた。並の女なら屋敷へ戻るなり、あれ恐ろしやと取り乱すに違いない。それを平助にすら一言も漏らしてはいなかったのだ。

晦日の晩。
折からの雪が風を伴い雪掠れの音を立てはじめた。寄せる風波に戸板が軋み、さらさらと打ちつける音がいよいよ激しさを増したとき、清左衛門の顔があがった。
最勝院の鐘が鳴った。
雪のせいかそれは常より遥か遠くから届くように思えた。絶えなく打たれる鐘の狭間を探るように清左衛門のおもてが微かに傾げられた。やがてその顔は土間へ向き、目の端は床の間に置かれた太刀を確かめた。すっくと腰をあげた清左衞門の険しい面貌は、當田の剣士そのものだ。
雪鼓ゆきづつみ
せめぎ合う雪と鐘に紛れたその音は、次第に確かになって冠木門の内へと入った。大雪の晦日に最勝院へ参ろうなどと酔狂な者でも、寺は屋敷から遥か東で通りすがりの足軽が立ち寄るはずはない。一歩そしてまた一歩と雪を踏みしめるその音は、戸口の前でひたと止んだ。清左衛門は太刀を取り、式台まで歩を進めると戸板の陰にひそむ者を睨みつけた。
「このような夜更けにどなたかな」
返す言葉は一つとしてなく、戸板が風で軋むばかりだ。
「はて、人語を返さぬなら物の怪の類いであるか」
「晦日の晩に夜更けを語るとは笑止なことよ」
戸口の者がそう返すと、清左衛門は土間へ足をつき力なく式台へ腰を落とした。手にした太刀は鞘のままで立てられて両の手の杖となる。
「孫六。何故領内へ戻った。南部で安穏と暮らしておればよいものを」
「安穏だと――兎も角ここを開けてくれ。冷えて叶わぬ」
声の主は、領主暗殺を企てて出奔した乳井孫六郎であった。かつて當田道場で一・二を競った二人が戸板一枚を隔てて対峙する。
「いや、開けぬぞ。後生だからこのまま立ち去ってくれ。二度と俺の前に現れてくれるな」
「そうはいかぬ。開けぬなら蹴破るまでだ。お主には借りがあるからな」
「借りだと。対局ではお前が一つ勝ち越していたはず。もはや思い残すことはあるまい」
風が吹き寄せ戸板が震えた。それはまるで孫六郎が漏らした笑いのようだ。
「お主らしいな。わしがこの寒空に碁を打ちに現れたとでも申すか。では蹴破るぞ」
「分かった。分かったからくでない」
清左衛門は戸口のつっかえ棒を除けて身を真正面から外すと太刀の鞘尻でそろりと押し開いた。吹きこむ風に囲炉裏が火の粉を散らした。孫六郎は抜刀することなく中へ入り、壁際で身構える清左衛門を橫目に口もとを歪めた。
「さても用心深いものじゃ。道場を離れて肝まで縮みおったか」
「憎まれ口はよい。さっ、要件を申せ」
孫六郎はそれに構わず帯から鞘をひき抜くと、式台に腰を落として雪沓を解き始めた。
「寒うて叶わぬわ」
ふたたびそう漏らして板間へ上がると、囲炉裏を前に胡座をかいて手を炙り始める。
「どうした腹積もりだ。お主はお尋ね者なのだぞ。本来であれば――」
「本来ならどうした。わしを成敗するつもりか」
ぎろりと睨む孫六郎から殺気が漲るが、清左衛門はそれを意に介さずとして平静を保った。
「お主はそれができん男だ。試合で相手の目を突いたぐらいで剣を捨てる優男なのだからな」
孫六郎がどっと笑うと、天井を巡らせたはりの太木が震えた。清左衛門の眉間に皺が刻まれた。まさに図星なのだ。
「お主が去ってわしは師範になり得たが、張り合う相手を失ってとんと稽古に身が入らなくなった。次第に政を正すことに生き甲斐を覚えてな。後はお主が知るところだ」
「當田の剣は、殿とお身内衆を守るために振るうべきものじゃ」
「仕えるに相応しい主君ならわしもそうする。ところがあの夜鷹はお家を喰らい尽くす蟒蛇うわばみではないか」
囲炉裏の薪が一つ二つと弾けた。清左衞門も板間へ上がり、囲炉裏を挟み胡座で対峙する。
「臆病風に吹かれた奴が出てな。そいつが城へたれ込んで仲間は一網打尽って訳さ。お主は力を貸さぬと言うし、これで俺は一人きりだ」
「それならどうして領外へ逃れない。南部へ戻れば同志がいるのだろう。何故、晦日の晩にわしの屋敷へ現れるのだ」
「南部の話はよせ。名を聞くのも汚らわしいわ」
南部狂徒が寧親暗殺を企てた折、一味の一人が裏切って津軽家に密告した。寧親一行は、襲撃場所である秋田領の峠道を避けて、北海沿いの道へと進路を変えて事なきを得た。津軽家当主・暗殺未遂事件はすぐさま公儀の知れるところとなり、南部は関与を厳しく吟味されたが南部宗家はそれを真っ向から否定していた。此度の目論見も仲間の裏切りから失敗したらしい。
軒下へ吊した干し柿さながらに顔を歪める孫六郎から察したのか、清左衞門は囲炉裏にゆらめく炎へ目を外した。よき碁敵であり剣を競い合ったともがらが、咎を侵した身とは言え我を頼り訪れている。一分どころか人の層倍も仏の心を持ちあわせた清左衞門であるが、それにも増して実直な性分であり、その実直とは津軽家に対する忠義に他ならない。
「孫六。俺は何も見てはおらんし聞かなかった。どうかこのまま立ち去ってくれ」
「俺に情けをかけるのか。笑わせるな。お主への借りとはな、剣の甲乙がつく前に道場を去ったお前と決着をつけることよ」
「――明日をも分からぬ身でありながら、今さら剣の甲乙もあるまい」
「お前には分からぬようだな。死を前にする者の心持ちが」
そう言い放った孫六郎の手が傍らの太刀へのびると、清左衞門は前屈みとしていた背筋をのばした。
言葉の切れ目は降り止まぬ雪の音を露わにさせた。孫六郎はこの期に及んで尚、不敵な笑みを絶やしてはいなかった。両者とも抜刀の速さは凄まじいものがある。初太刀の行方によってはひと振りで決着がつく。
ちりちりと薪が音を立て始め、鋭く爆ぜるや火の粉が八方へ散った。孫六郎の一閃を清左衞門が抜き打ちで弾き返すと、両者は胡座の体から神業の如き跳躍を見せて間合いを取り直した。
「さすが清左だ。わしの太刀を躱すとはな」
双方とも太刀を上段にして諸上もろあげの体で相対したが、間もなくして孫六郎は右肩へ太刀を立てた八相、清左衞門は腰を落として右肩から切っ先を相手へ向けた霧の構えに転じた。孫六郎が導くように土間へ下りると、清左衞門は板間に足を擦りながら床の間へ置き去りにした脇差しに持ち替えて、そのまま土間へ下りて戸口を背にした。
「知恵者だな。ここでは長尺の太刀が不利と踏んだか」
「孫六。もうそれぐらいにしないか」
清左衞門は諸手を下げると戸口を孫六郎に譲り、自らは足を擦りながら板間へ戻ろうとする。
「この期に及んでお主と言う奴は――」
孫六郎がにじり寄ろうとしたその刹那に、二人の目が戸口へと向けられた。細かな雪が吹きこむその先に緋色へ白いあられを散らした小紋の衣が垣間見えたのだ。
「清左衞門さま」
包みを手にした菊は遠慮がちではあるが恐れを抱かずに戸口をくぐるが、抜き身を手にした二人に気づくや身を竦めた。
「ほぉ――これなるが卜伝組を蹴散らした折に連れていた女であるか」
「お主は知らずともよいこと。菊殿。早々に帰られよ」
そう促した清左衞門であるが、孫六郎は菊に歩み寄る。
「そうはいかぬぞ。これなる清左は拙者と一向に刃を合わせようとはせぬ。ならばそなたを人質とするまで」
菊の襟首へのびたかいなを、咄嗟に二人の間へ立ちはだかった清左衞門が掴んだ。
「菊殿。お逃げなされ。さっ、早く」
菊は転げるようにして外へ逃れた。瞬時に足手まといになっては清左衞門の益にならないと察したのだ。孫六郎が腕を振り払うや、清左衞門の切っ先は孫六郎のつま先へ向けられて地の構えとなっていた。
「それでよい」
一歩下がった孫六郎も同様に地の構えとした。當田で用いる合車あいしゃの立ち会いだ。
「清左よ。お主の太刀筋は見切っている」
孫六郎は足を擦り間合いを狭めた。合車の立ち会いでは太刀使いの孫六郎が有利である。清左衞門は片手持ちの脇差しを正眼に構えると、するすると無防備に歩みでた。孫六郎の頬が醜く盛り上がった。その歩法こそ當田流小太刀こだちの定石であるからだ。
當田の極意。
それは淀みなく滞りを知らず。清左衞門は流れる水の如く孫六郎との間合いに入った。孫六郎はすかさず上段に転じて袈裟懸けに振り落とした。空をも切り裂く凄まじい太刀筋を横に掠めてすり抜けた清左衞門は、体を右へ転ずるとそのまま孫六郎の手もとへ刃を振り落とすはずであった。この型を清左衞門が得意だと心得る孫六郎は、間髪を入れず下から払い上げた。
読みは得てして人を陥れるものだ。
瞬くほどの攻防で孫六郎は膝をついていた。太刀を杖に立ち上がろうともがくがそのまま土間へ突っ伏した。
「まさかに突いてくるとはな――これで決着がついた。もう思い残すことはない」
「孫六――」
「南部へ逃れたはいいが、公儀の追求を恐れた同志は主だった者を殺め始めた。そこへ、のこのこと現れた俺はとんだ厄介者だった。お笑い草だな。俺はまんまと利用――」
事切れた孫六郎の傍らに清左衞門もまた膝をついた。
雪は降り止まなかった。
最勝院の鐘はいつしか止んでいた。我に返った清左衞門は、何を思ったか孫六郎の骸を板間へ上げると、土間へ散った血糊を清め始めた。

清左衞門の屋敷を逃げでた菊は、鳴海平助の屋敷へ助けを求めていた。すでに床へ伏せていた平助は仰天し、若侍一人を伴って清左衞門の屋敷へ急いだ。
駆けに駆けて寒中に息も絶え絶えな平助がようやく屋敷に辿り着くと、平静の如く戸口が閉じられていた。二人は太刀を抜いて恐る恐る戸口に寄った。
「鳴海じゃ。もしや中に居るのは乳井孫六郎ではないのか――おい津島。返事をせい」
返答はない。
年を越して大方の者が寝静まる暮れの八ツ。平助の声に何ごとかと燐家の灯がともり始めた。肚を括った平助は若侍に目配せをすると戸口に手を掛けた。
板間に座した男が二人。一人は戸口に背を向けて前のめりに倒れている。
「清左――」
清左衞門は平助へ向き直った。
「無事であったか。それなるは乳井孫六郎であるか」
「乳井は腹を切りました」
「何と――」
驚きから眉を上げた平助だが、寸分を置かずに険しい面貌となって若侍へ外を見張れと命じた。その者が戸口の陰へ消えたのを確かめた平助は、絞りだすようにして語り掛ける。
「津島。貴様――乳井を斬りおったな」
うんとも返さぬ清左衞門を尻目に、平助は辺りを見回すが土間に乱れはなく血潮の一滴も零れてはいない。膝を正したまま囲炉裏へ向けて前のめりとなった孫六郎の背から刃先が突きでていた。
「當田の双璧。十年越しの勝負に決着がついたか――大手柄ではないか。お主の栄達は間違いないぞ」
「いいえ。孫六は罪を悔いて自ら腹を切ったのでござる」
「津島お前――」

文政六年(一八二三)元旦
『咎人・乳井孫六郎割腹にて果てる』
津軽家は、鳴海平助がもたらした報せによって正月早々の大騒動となった。
領主を亡き者にしようと企てた大罪人が自らの命を絶った。それを知った城方は、町役人を差し置いて多勢の兵を差し向けた。清左衞門の屋敷は半武装の兵たちにぐるりと囲まれて、小人町の住人は屋敷へことごとくく引き籠もり辺りは騒然となった。孫六郎の死を自らの目で確かめようとした家老らが駆けつけて、わずかな乱れも見せずに絶命した孫六郎を目の当たりにして言葉を失った。
番頭・竹内源太夫げんだゆうが遅参して来た。源太夫が戸口をくぐると、大方の検めは終わったようで未だ残る家老らが言葉を交わしていた。
「鳴海殿。正月早々にせわしくなったの」
「これは竹内殿――」
源太夫は謀反こそ口にしないが寧親の放蕩振りを嘆くのが常で、先代が実践した倹約論を主張して憚らない。
「相済まぬ遅参してしもうた。して、津島は」
「奥に籠もっておる。突然に乳井が現れてさぞや魂消たまげたのだろう」
源太夫は将棋の駒を思わせる角張った面を板間に伏したままの孫六郎へ向けると、ただでさえも巨眼と言われる目を三白として平助を顧みた。
「ようも、あのような狂犬と相対して殺められなかったものじゃ。それにしても、解せぬな」
「どうかされましたかな」
「乳井の背を見てくれ。背まで貫ぬいた傷が二つ。あれでは腹を切ろうにも切れるものではない。咎人とは言え、當田の師範まで務めた男が割腹の作法を知らぬ訳でもなかろうに。津島は何と申しておるのか」
「何やら死に際に迷いが出たようでの。踏ん切りをつけようと思わず力が入ったのだろうと申しておる」
「死に際で迷いがのう――」
「立ち会った津島が申すのじゃ。何せ、もし津島が成敗したなら前代未聞の大手柄じゃ。みすみすそれを逃す阿呆はおるまいて。兎も角、これで殿は安堵の高枕じゃ」
平助は話を結んだが、その耳もとへ筒手を寄せた源太夫は声をひそめて語りだした。
「大きな声では言えぬがの。わしは乳井の存念を丸きり分からぬ訳ではない。殿がああではお家が立ち行かぬて」
「これ、竹内殿」
「そうであった。鳴海殿故、ぼやいたまでじゃ」
歯を見せた源太夫を離れた平助は、奥の間へ通じる板襖を開けた。
清左衞門は、膝を正したまま壁を睨むようにして端坐していた。微動だにしないその姿は、さながら打ち捨てられた廃寺に佇む石仏のようで、わずか一尺四方の明かり取りから差し込む光に照らされた半顔がますますそう思わせた。その後背に腰を下ろした平助の息が濛々と立ち昇り、やがて散り散りに消え失せるまで掛ける言葉を見いだせなかった。
「津島。清左、清左衞門よ」
「鳴海さま」
膝を擦り向き直った清左衞門の有様に、平助は喉奥がつかえたような面持ちとなった。飄々とした様子は消え失せて眉根を寄せた面貌は常の清左衞門ではない。かつて、平助はそのような清左衞門を一度だけ目にしたことがある。
「清左よ。誠にこれでよいのか。このような出世の好機は二度と巡っては来ないのだぞ」
首を横へ振る清左衞門の決意は揺るがない。そう思い極めた平助は、胡座を解くと投げやりに板間へ足を放って見せた。清左衞門は、そうした平助に諸腕を真っ直ぐに膝へつがえたまま頭を垂れた。
「まったく――お主の頑固ほど厄介なものはない。手柄を棒に振った上に同門を斬って胸を痛める始末。清左衛門よく聞け。そうした考えは金輪際捨て去るのだ。當田の時分もそうであった。相手の目を潰したのは試合でのことで――」
「鳴海さま。分かっております。分かってはおるのです」
平助は、この上もなく重い息を漏らした。剣で身を立てるご時世は過ぎたとは言え、手下思いの器量を思えば足軽同然の三十石に甘んじる男ではない。千載一遇の出世の機会を、詰まらぬこだわりでかなぐり捨てた阿呆なのだ。

日が暮れて六ツを数えた。
城方が引きあげた清左衞門の屋敷は、常にも増して静けさが際立っていた。さらさらとした雪の音。自らが立てた物音にさえも侘しさを覚えて、夕餉の仕度をすることもなくただただ囲炉裏の炎を見詰めていた。顔をあげれば孫六郎が胡坐の体でそこに居て、不敵な笑みを向けるのである。そのような幻さえも、振り払うには惜しい孤独の淵に落ちていた。
『清左。何故わしを討ち果たしたと申さなかった。さすればろくの引き上げはもちろんのこと、新たなお役目を任されただろう』
「俺はお主を斬りとうなかった。斬りとうなかったのだ。それで得た出世など何の意味があろうか」
『お前はとんだ馬鹿者だ。そんな心持ちで世を渡って行けるものか』
「そのような世など渡りたくもないわ」
孫六郎は大口で笑った。銅鑼を割ったようなその声に屋敷が耐えかねて軋みをあげた。
『不思議なものよのう。わしはお主と剣を交えれば心残りはないと思っていた。だが、こうして三途の川に舟待ちをしてみれば、今一度お主と対局をしたい思いに駆られて仕方がないのだ』
「よし。待つがいい。囲碁にて一世一代の勝負をしようではないか」
清左衞門は床の間へ走り、父譲りのかやの碁盤を持ち出して孫六郎の前へ置くと、黒石の入った碁笥ごけを差しだした。
「先手はお主で頼む」
孫六郎の打った黒石が、凜とした身の締まる音を立てた。
『清左。大概にして身でも固めろ。あの女は菊と申したか。なかなかの器量よしではないか』
「身を固めるなどと、わしはもういい年じゃ」
そう言って、白石を置こうとする清左衞門の目が戸口へ向いた。
一拍、そしてまた一拍を置いて打たれる雪鼓は、ゆっくりと門の内へ入るとそのまま戸口へ迫った。碁石を握り絞めた清左衞門が目を戻すと、碁盤の向こうの孫六郎は掻き消えて、置かれたはずの黒石もなかった。我に返った清左衞門は、太刀を手に土間へ駆け下りるや八相の構えをとった。迫るは孫六郎の怨霊はたまた物の怪の類いだろうか。胡蝶の夢に陥る清左衞門は、自責の念に翻弄された。
剣呑な気配は戸口の前でひたと止まった。切っ先を戸口へ向けて霞みの構えへ転じた清左衞門は、現れるであろう孫六郎に乾坤一擲の一閃を放つべく腰を落とした。
カタリと戸口が鳴った。
「何者だ」
「ごめんくださいませ。津島さま菊でございます――ごめんくださいませ」
「菊殿」
太刀を下ろした清左衞門は、土間へ放っていた鞘へ抜き身を戻して戸口を開いた。申し訳なさそうに頭を垂れた菊の頭巾は雪に塗れている。
「昨晩は大変申し訳ありませんでした。あのようなことがあってお伺いをするのはご迷惑と思いましたが、津島さまのご心痛を思えば矢も楯もたまらずに――」
「そのように濡れてしまわれて――お寒いでござろう。中へお入りくだされ」
菊は外で雪を払い土間に足を踏み入れると、板間へ置かれた碁盤に目を留めた。
「お客さまがいらっしゃったのですか」
「あ、いや気が滅入って始末に負えんでな。一人で石を置こうとしたところでござる」
菊は胸もとに包みを抱いていた。清左衞門が碁盤を片づけるのと同じく、菊はそれを床へ置いて解き始める。
「お口に合うか分かりませぬが。食をおろそかにしてはお体に毒でございます。少しでもお召し上がりください」
開かれた二段の重箱には、色合いに気遣った心づくしの料理が並べられていた。思えば元旦の宵である。おせちの馳走など父が他界してから、いやそれ以前から口にしていなかった。
「これは鱈でござるな」
「はい。よいものをいただきました」
「菊殿の手料理で初めて口にしたのが鱈でござった」
冷めても尚、囲炉裏の炎に照らされて艶やかな寒鱈に目を落とした清左衞門は、それきり言葉を継がなかった。箸をつける訳でもなく、ただ見詰め続けた。
「菊殿。これまで重ね重ねの非礼をお詫び申しあげる」
諸手を床へついて深々と頭を垂らす清左衛門。慌てた菊は細指をその肩に添えた。
「そのようなことはお止めくださいませ」
雪はさらさらと絶えなく鳴るが、それにも増して清左衞門の内に滾る何かが轟々ごうごうと脈打っていた。身を起こした清左衞門は菊を見詰めるが、語るべき言葉を知らなかった。おもむろに天井を見あげたと思えば、身を持て余すようにその長身を不自然によじらせたりもする。口は何かを語りげにわなわなと震えるが、喉仏を上下させるばかりでやがて力が尽きたように大きく肩を落とした。
「津島さま――」
込み上げるものを御し難いのかそれとも意気が萎えてしまったのか、俯いた様子に菊もまた美しい睫毛を伏せた。
石が鳴った。
清左衛門の目が大きく開かれた。
ふたたび石が鳴った。
榧を打つ凜とした音は清左衞門の姿勢をも正させた。
(孫六――)
音は清左衞門を叱咤した。己から逃れるなと叱咤した。胸奥へ仕舞いこんだ自責の念を紛らわすように寛大に振る舞い、それでも頭をもたげる鬱屈を世捨て人に成りきることで忘れようとした。それが清左衞門の逃れ口であり、らくな生き方であった。
まなかいの先に朧な三叉路がのびている。渇望する一方の道は、これまでとは違う生き方が開けているように思えた。これでもかと際限もなく打たれる石は、一度は萎えた清左衞門の背中を押した。
「お、折り入ってお願いがござる」
「はい。何なりとお申しつけください」
菊は、語られるであろう言葉に人生を委ねるように深々と頭を垂れた。清左衞門はおもむろに腰をあげて屋敷の膳箱から自らの箸を手に取ると、それとは別に菊が持参した重箱の箸を菊へ差しだした。
「拙者と一緒に食べてはもらえぬだろうか。一人で口にしてもせっかくの馳走が味気ない」
菊の長い睫が、さながら花を咲かせるように大きく開かれた。頷いた菊は嬉々として腰をあげると、清左衞門の箱膳から器を取り出して料理の大方をそれにより分けた。自らは少しばかりを残した重箱を引き寄せて両の手を胸もとで合わせる。
「ご一緒にちょうだい致します」
清左衞門の顔が和みのあるものになった。
「美味い。菊殿が仕立てた鱈の煮付けは格別じゃ」
「わたしも津島さまといただくご飯がおいしゅうございます」
「菊殿。明日も拙者に飯を届けて下さらぬか。明日もそれからその先も、そうじゃ通うのが面倒ならここに寝泊まりしても構わぬぞ。どうだ。この願いを受けてはもらえぬだろうか」
菊は袂で顔を隠すと、身を丸めておこりでも起こしたように体を震わせた。

雪は、夜を通して止まなかった。
一刻前、菊が残したはずの踏み跡は跡形もなく埋もれていた。戸口にふたたび踏み跡が現れるとき、二張の雪鼓が睦まじい夫婦の音を奏でるに違いない。

(了)

鵜飼真守

中世から昭和初期を中心に、史書の行間に埋もれた人々の物語を創作しています。 青森市出身宮城県在住。https://www.amazon.co.jp/-/e/B07L25W9JW

Author: 鵜飼真守

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