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https://aomori-join.com/2021/05/07/kosimizu-fire/
アオモリコネクト特派員のかんからです。
とある日、仲間達で雑談していると……この話題が出たのです。
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この動画のどの部分だったかは……探すのが大変なので、諦めました(笑)
でも確かに僕は話しました。今回の特別ゲストでお招きしたりんごの花店長の小池さんが山口県出身。でも青森県を大大々大PRして、青森料理も構えてしまったという方でございます。
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僕の頭の中は、”山口”→”ふぐ”→”下関”→”壇ノ浦”→”安徳天皇”
こういうルートを辿ったわけです。歴史が好きな人には、わかってもらえましたか??
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簡単にご説明しますと、彼は源平合戦における悲劇のヒロイン。平家一門に祭り上げられ幼くして天皇となり、源氏が京都に攻めあがるや否や西へ連れていかれ、最後は壇ノ浦の合戦で入水自殺。
平家物語『壇ノ浦(安徳天皇の入水)』現代語訳(1)(2)(3) – フロンティア古典教室 (frkoten.jp)
周りの大人たちが勝手に戦をして、その犠牲となってしまった哀れな童子。平家の諸将も殺されたり入水していることすれ、彼は(京都から連れさられない限りは)本来死ななくてもよかったのです。でもそこは平家とも血縁がありますし、彼自身が平家の象徴でもある。きっても切り離せない関係であり立場です。
きっと彼自身は完全に状況を把握しきれてないでしょう。何もかもわからないままに、大人の事情で命を失ったのです。いたたまれません……。
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そんな彼を憐れんで、様々な伝説が生まれた。
世間ではよくあるというか……。全国にたくさんあるんです。この手の話が。
ある意味で『義経は殺されずに逃げて、北海道に渡った!』とか、
『豊臣秀頼は密かに大坂城を抜け出し、島津氏に匿われた』
といったのと同類でしょうね。
『安徳天皇生存説』も様々ありまして……
・摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。
・因幡国に逃れて10歳で崩御したとする説。
・鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。
・鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。
・阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説。
・土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。
・対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説。
・肥前国山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。
・薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説。
・大隅国牛根麓にて13歳で崩御したとする説。
などなど、数えきれないくらい!
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青森県にも、伝説はある。
壇の浦での源平の戦いで安徳天皇は、二位の尼(平清盛の妻で、天皇の祖母)に抱かれて海に身を投じたことになっているが、投身したのは実は安徳天皇ではなく、安藤水軍の将・塩飽次郎左衛門の子辰丸だった。安徳天皇は安藤水軍にかくまわれて津軽に逃れ、天皇山に宮をつくりそこに住んだ。ところが、津軽の冬の寒さに驚いた安徳天皇一行は、安藤船に乗って中国に渡った。
Web東奥/とうおう写真館・あおもり110山/天皇山 (toonippo.co.jp)
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いやいやいやいや……(汗)
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逃げてきたそうですよ? 安徳天皇が。
東日流平郡史は、いわゆる和田家文書とは違う?
安徳天皇が逃げてきたよーと記述してあるとされる、東日流平郡史。試しにネットで探してみると、代わりに偽書として名高い東日流外三郡誌が出てきてしまう始末……。ちなみに東日流外三郡誌はいくつかある和田家文書の一つで、似たような名前の書物はいくつか存在します。もしかするとこの東日流平郡史って書物も、和田家文書の一つ……?
もともと和田喜八郎の家に伝わった古文書と称するものの総称とされていた語は「東日流外三郡誌」であった[4]。しかし、その後の和田の「構想」の拡大で、明確に「東日流外三郡誌」以外の題を冠した古文書(実際には偽書)が和田喜八郎の手元からぞくぞくと出てくるようになった。「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」「北鑑」「北斗抄」「丑寅日本記」「奥州風土記」などである。そのため相互では内容が矛盾するものも少なくなかった。
そこでつがる市役所に問い合わせたところ、これらの偽書とは別物だと話して下さいました!これで若干、”安徳天皇が青森に逃げてきた” という説の信憑性が高まった……?
ただし つがる市図書館には東日流平郡史という書物は所蔵されておらず、おそらく地元の人の口伝という形で伝えられたのだろうという話でした。
実は僕の本籍地の間近だけど
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しかも佐藤家の2つあるうちの、1つの本家です。この地区は長谷川さんが圧倒的に多いですが、佐藤もその中で群れております。ただし僕の家族自体が本家なのに、すでにこの集落に住んでおりません(苦笑)。時代とはそういうものです!しかも昔から使われてきた “広岡” という地名自体も、実質消滅してます。住所的には越水に取り込まれてしまいました……。
見てください。こんなにも佐藤の拠点と、天皇山が近いんですよ!でも安徳天皇の話は家に伝えられてこなかったし、僕が初めて知ったのは2年前ぐらい。図書館で本を読んでたら、偶然目についただけ……。(追記:父親に改めて聞いたら、莇岡にはそれらしき言い伝えはあったとのことです。広岡の隣で、しかも天皇山により近い。小学校の頃、越水小学校の道徳の授業で先生から習ったとの話でした!ということは最低でも60年以上前からこの言い伝えがあるということ。)
でもでも、そういえば……僕のご先祖様は西行法師(佐藤義清)。安徳天皇と同時期に生きていた有名なお坊さんです。北面の武士として平清盛と上司部下の関係を5年ほど、大河ドラマでは近しい関係として描かれてましたが。
【願わくは 花の下にて】最期まで美しく生きた西行(佐藤義清)の和歌 | 歴人マガジン (rekijin.com)
しかも村にある神社の名前は、高倉神社です。高倉というと、高倉天皇という方もおられまして……まさかの安徳天皇のお父さんです。
で、ここで否定を入れておきます。
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江戸時代初期まで、山の辺りは人住んでなかったと思われます。江戸初期の新田開発によって、木造周辺に田畑が出来て、やっとで人が住み始めましたから。
江戸前期に新田開発=10 by 陸奥新報 (mutusinpou.co.jp)
佐藤の男系はその頃、藤崎町榊村在住です。なので偶然に偶然が重なって、同時代の関連メンバーがその辺りに揃っちゃいましたけど……(汗) 安徳天皇が逃げてきたというなら、鎌倉時代あたりからの言い伝えなんでしょう。でも根拠となる東日流平郡史の在処も現状ではわかりませんからね。
誰か安徳天皇生存説に関して情報をお持ちでしたら、アオモリコネクトまでお寄せください♪
そして僕の実家から宝の地図と小林一茶の直筆歌集を盗んだ人は、返そうね♪(もはや30年も前の話……)
これまた面白ネタをありがとうございます。暖かくなったら寄ってみようかな?こりゃディープスポットだ。
— まんぞう (@yan_man_zo) January 30, 2021
高山稲荷は天皇山発祥?
千本鳥居と云われるこの鳥居をくぐって最上段に立ったら、もしかしたら極楽浄土ってこんな所かもと思えた。
:高山稲荷神社にて pic.twitter.com/KPYwyX0dS7— gohakuphoto (@gohakuphoto) July 16, 2020
有名な方の高山稲荷神社
天皇山の高山稲荷神社
メロンロードその1「天皇山」ーつがるみち56 – のんびりとじっくりと! (fc2.com)
メロンロードの先にある「千本鳥居」で有名な「高山稲荷神社」の前身は、ここ天皇山の稲荷様だったともいわれています。
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