→→前回作品はこちら←←
今回は白鳥由栄について取り扱いたいと思います。最近だと某人気漫画であるゴールOOOムイなんかにも似たようなキャラが出て参ります。このように彼の事を記事や映画等々で出している方はたくさんいるんですが、本人自身を紹介する文章に明らかな間違いが見受けられてまして。この人の出生地は青森市筒井なのですが、当時の住所でいえば東津軽郡筒井村ということになります。
ただ残念な事に、東鶴賀郡筒井村と書かれているサイトが多数!
敦賀郡ってどこですか!?!?ツガルとツルガ……最初は打ち間違いだったでしょうが。誰にも訂正されることがないまま、今に至っているという災難。例えばinfoOOOkやRaOOOenの漫画とか、万人の目に触れるようなサイトで……(汗)
敦賀でなくて津軽!
この事実を声に出して言いたい!!
さて本題に戻りまして……白取由栄の生涯をご覧ください。
例の如く、原文後には方言版を入れておきます♪
②昭和の脱獄王
白鳥由栄
彼は明治四十年(1907)、現青森市の筒井で生まれた。3歳の時に生家を離れ豆腐屋へ引き取られる。成長して後は蟹工船や魚屋などで働いていたらしい。ちなみに白鳥(”しらとり”と読む)という苗字自体は青森に古くから存在する。
転機は昭和八年(1933)、白鳥が25歳の時。仲間らと共に強盗殺人を起こした。当時は不況下であり実入りが少なかったことが原因と伝え聞くが、もちろん許されることではない。それからというもの何度も罪をおかし、昭和十年(1935)逮捕および青森刑務所へ収監されるに至る。
……ここから、伝説は始まった。
刑務所での罪人の扱いはひどく、現代みたいに人権で守られてはいない。看守は自由に罪人らをいたぶることができる。白鳥にも罵声を浴びせた。「早く死んでまれ」「おめなんぞ、”はくちょう”なんて代物でねえ。てら(=ハエ)だろ。てら。」など、毎日のように聞かされて笑われる。
……白鳥の性格は決して勝気なわけではない。だがそうとう応えたようだ。内なる炎を秘め、白鳥は決意した。”ここの檻からでてやる”と。
そして実際に成し得てしまったのだ、脱獄を。
看守の緩む時間帯、針金を見つけて鍵穴を壊す。己の布団を膨らませておいて、寝ているだろうと見せかけ、発覚を遅れさせた。
当然ながら青森市内は大騒ぎ。青森県警の半分以上が動員され、白鳥の捜索が行われた。
しかし捕まるのはあっけなかった。食べるものは何もなかったので野草を口に入れたところ、そのまま腹痛をもよおしてしまう。そのところをあっけなく捕まったのだった。
昭和十六年(1941)、二度目の脱獄は秋田刑務所でやってのけた。青森で脱獄に成功しているだけあって、周りの目は厳しい。なので鎮静坊という外光の特段薄い部屋に閉じ込められた。特に冬になると、床が冷たく身が震える。犯罪者といえどもこの扱いはひどすぎる。白鳥は再び脱獄を決意する。
今度は天井の鉄格子から。お手製のノコギリを天井に付いていたブリキ片と錆びたくぎから製作。看守の交代時間、一日10分の間、天井によじ登ってちょっとずつ切り離していく。
そして嵐の日。雨風に紛れて脱獄に成功したのである。
昭和十八年(1943)、三度目は網走である。あの刑務所の代名詞、極寒の大地が待ち受ける。秋田から逃げうせていたが結局は捕まり、もう三度目はさせまいと一番過酷なところへ収監されることとなった。今度は手錠も足枷も、それぞれコンクリーの地面にボルトで溶接されて、一切身動きができない。食事は器を口でくわえてとらざるを得ない。さらには冬でも肌着一枚しか着させてもらえない。いつしか手錠と肌の接触部分はただれ、ウジがわいた。
だが白鳥も根気強かった。奇跡を信じて手錠にかみついたりして外そうと試みた。いくら手首が痛もうとも、もうこれしかないのだ。するといつしか緩んだようで、いつでも外せるくらいになった。こうなると足枷を外すのも楽なものである。
外界とを隔てる鉄格子。目を盗んで慎重にかつ大胆にも揺さぶり続けた。さらには食事の際に味噌汁を吹っかけ、塩気で鉄のさびをもたらそうと試みた。……3か月もたつと、結構がたつき始めたようで、あとはチャンスをうかがうだけ。
……とある日、偶然にも送電線が切れた。そのため停電が発生し、その隙をついて白鳥は脱獄。通気口の狭いところは、あろうことか肩の骨を外して出たという。
第二次世界大戦が終結した翌年、昭和二一年(1946)、再び捕まる。そして札幌刑務所に収監。なおいっそう厳しい目で警備したはずだったのだが……脱獄に成功する。四度目である。貧乏ゆすりをしているかのように見せて、実は床の土を削っていた。手製ののこぎりもまた作った。ばれないように慎重にかつ大胆に床を削り続ける。……こんどは下からの穴で外へ這い出たのである。
こんな人物がいたなんて……。
そして以下、方言版。
白鳥由栄
彼は明治四十年(1907)、現青森市の筒井で生まぃだ。3歳の時に生家ば離れ豆腐屋さ引き取らぃる。おがった後は蟹工船や魚屋などで働いてらんだど。ちなみに白鳥(”すらどり”ど読む)という苗字自体は青森さたげ古くあるんた。
転機は昭和八年(1933)、白鳥が25歳の時。仲間らど共さ強盗殺人ば起ごすてまる。当時は不況下だとこで実入りがわんつかだったことが原因ど聞くばって、もちろん許さぃることでね。そっからなんぼも罪ばやってろ、昭和十年(1935)逮捕および青森刑務所さ収監されてまった。
……こごから、伝説は始まった。
刑務所での罪人の扱いはひでく、現代みてく人権で守らぃではね。看守はまでえに罪人らばえんずめる。白鳥さも罵声ば浴びせた。
「早ぐ死んでまれ」
「おめなんぞ、”はぐぢょう” なんて代物でねえべな。てら(=ハエ)だべな。てら。」
など、むったど聞かさぃで笑わぃる。
……白鳥の性格は決すて勝気なわけでね。だばってたんげ応えたんた。内なる炎ば秘め、白鳥は決意すた。”ここの檻がらででやる” ど。
そすて実際にやってまった、脱獄ば。
看守の緩む時間帯、針金ば見つけて鍵穴ば壊す。己の布団ば膨らませて、寝ちゃあべかと見せかけ、発覚ば遅れさせた。
当然ながら青森市内は大騒ぎ。青森県警の半分以上動員してろ、白鳥の捜索が行わぃだ。
だばって捕まるのはあっけねがった。食うもんは何もねがったはんで野草ば口さ入れたところ、そのまま腹痛ばもよおすてろ。そのとこばあっけねく捕まってまった。
昭和十六年(1941)、二度目の脱獄は秋田刑務所でやったんた。青森で脱獄さ成功すてらはんで、周りの目は厳すい。だはんで鎮静坊という外光のたんげ薄い部屋さ閉ず込められた。特に冬さなるど、床がしゃっけく身震える。犯罪者なんだばってこの扱いはひでえ。白鳥はまんだ脱獄ば決意する。
今度は天井の鉄格子から。お手製のノコギリば天井さ付いでらブリキ片と錆びちゃあくぎから製作。看守の交代時間、一日10分の間、天井によず登ってわんつかずつ切り離すてく。
そすて嵐の日。雨風に紛れで脱獄さ成功すたのだ。
昭和十八年(1943)、三度目は網走だ。あの刑務所の代名詞、極寒の大地が待っちゃあど。秋田から逃げたばって結局は捕まり、もう三度目はさせねえど一番過酷などごろさ収監されてまった。今度は手錠も足枷も、それぞれコンクリーの地面さボルトで溶接さぃで、一切身動きができね。食事は器ば口でくわえで取んねえとまね。さらには冬でも肌着一枚すか着させでけね。いづのこめに手錠と肌の接触部分はただれ、ウズっこわいた。
だばって白鳥も根気強かった。奇跡ば信ずて手錠にかみついだりすて外すべど試みだ。なんぼ手首痛むばって、もうこぃすかねのだ。んだらろいづすか緩んで、いつでも外せるぐれえさなった。こうなるど足枷ば外すのも楽なもんだ。
外界とば隔てる鉄格子。目ば盗んで慎重にかつ大胆にも揺さぶり続けだ。さらには食事の際の味噌汁ば吹っつけ、塩気で鉄のさびさせるべと試みだ。……3が月もたつど、結構がだづぎ始めでろ、あとはチャンスばめるだけ。
……とある日、偶然にも送電線が切れだ。そのため停電がおきてろ、その隙ばついて白鳥は脱獄。通気口の狭えとこは、ぶったまげるばって肩の骨ば外すて出たんだと。
第二次世界大戦終結すた翌年、昭和二一年(1946)、まんだ捕まる。そすて札幌刑務所さ収監。たんげ厳すい目で警備すたんだばって……脱獄さ成功す。四度目だ。貧乏ゆすりばすてらんだがと見せで、実は床の土ば削ってら。手製ののごぎりもまだ作った。ばれねように慎重にかつ大胆に床ば削り続ける。……こんどは下からの穴で外さ這い出たのだ。
こった人物がいだなんて……。
・