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「青森も被災地だった」東日本大震災で県内に起きた被害を振り返る

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、岩手県や宮城県、福島県の甚大な被害が広く知られている。一方で、青森県もまた、この震災で確かな被害を受けた地域だった。

青森県の広報資料などによると、県内では死者3人、行方不明1人が確認され、住家被害は全壊308棟、半壊701棟、一部破損1005棟にのぼった。地震発生直後には県内全域で約90万戸が停電し、沿岸全市町村を含む22市町村で避難指示・勧告が発令。避難所は29市町村306か所に開設され、最大避難者数は2万4132人に達した。

被害の中心となったのは、太平洋沿岸部だ。国土交通省東北地方整備局の資料では、青森県太平洋沿岸部の浸水高は三沢・八戸で6.2~8.6メートルとされている。八戸では観測上の津波の高さが4.2メートル以上に達し、沿岸の市街地や港湾施設、漁港、道路などに大きな被害をもたらした。

とりわけ八戸市の被害は深刻だった。八戸市の記録によると、市内では死者1人、行方不明1人、重軽傷者70人が確認され、住家は全壊254棟、大規模半壊147棟、半壊477棟の被害を受けた。非住家も含めると、全壊・大規模半壊・半壊は計2024棟にのぼり、被害総額は約1213億円に達している。

震災の影響は、港や海辺だけにとどまらなかった。県の記録では、停電の全面解消は4月6日。さらに物流網の寸断により、燃料不足や物資不足が各地で起き、スーパーやコンビニの棚から食料、水、電池などが消える状況も見られた。八戸市の油槽所も津波被害を受け、一部出荷の再開は3月20日、海上ルートでの燃料輸送再開は3月23日だったという。

交通網も大きく揺らいだ。県の記録によれば、JR八戸線は津波で線路や橋桁が流出する被害を受け、久慈駅まで全線で運転を再開したのは翌2012年3月17日。八戸~苫小牧航路も、八戸港フェリーターミナルの浸水被害などにより一時運航を休止し、青森港を代替港として運航した。八戸着での再開は2011年7月11日だった。

経済面の打撃も重かった。青森県の統計資料では、東日本大震災による県内の社会インフラ等の被害額は、2011年12月21日時点で総額1337億円。内訳は商工業・観光施設578億円、港湾関係399億円などで、港湾・産業基盤への被害の大きさが目立つ。八戸港の被災により、水産業も大きな影響を受け、八戸港の水揚げは震災直後に大きく落ち込んだ。

また、階上町でも記録的な津波が観測された。町の記録では、大蛇地区で10.73メートルの巨大津波を観測し、住居被害は全壊74戸、大規模半壊8戸、半壊8戸、一部損壊2戸。漁船260隻のうち124隻が流出・沈没・損壊し、町全体の被害総額は約13億3600万円に上った。青森県沿岸の被害は、決して八戸だけの話ではなかったことが分かる。

東日本大震災から年月がたち、青森県内でも復旧・復興は進んだ。八戸市では港湾施設や防災施設の再整備が進められ、県も震災の教訓を踏まえて防災体制の見直しを進めてきた。だが、数字や写真をたどると、青森県でも確かに命が失われ、暮らしが壊れ、地域産業が深い打撃を受けた事実は重い。

この地震を振り返るとき、青森県は「被害が少なかった場所」として片付けられがちだ。しかし実際には、県内全域の停電、沿岸部の津波被害、長期化した避難生活、物流と産業への大打撃という現実があった。あの日を風化させないためにも、青森県で何が起きていたのかを、いま改めて見つめ直す意味は大きい。

Author: かんから
本業は病院勤務の #臨床検査技師 。大学時代の研究室は #公衆衛生学 所属。傍らでサイトを趣味で運営、 #アオモリコネクト 。

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