青森県南部町は、黒柳徹子さんの疎開経験と「平和への思い」を次世代に伝えるため、町役場南部支所(改修中)に「(仮称)黒柳徹子記念ルーム」を開設する計画を進めています。開館予定は令和9年(2027年)4月1日とされています。
徹子さんの疎開先として知られるのが、南部町の諏訪ノ平地区。ここで家族を支えたのが、母で随筆家の黒柳朝(愛称:チョッちゃん)です。本記事では、諏訪ノ平での暮らしと当時の生活の輪郭を、青森の視点でたどります。
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南部町が「(仮称)黒柳徹子記念ルーム」を計画
町の広報によれば、記念ルームは「疎開経験」と、ユニセフ親善大使としての活動などを展示し、「平和の大切さ」「地域への愛着と未来への希望」を育むことを目的に準備が進められています。開館予定は令和9年(2027年)4月1日です。
報道でも、疎開中の写真などを展示し、2027年4月の開設予定と伝えられています。
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終戦直前、諏訪ノ平で暮らした「1年半」
青森テレビ(ATV)の報道では、徹子さんは1945年3月の東京大空襲のあと、当時12歳で諏訪ノ平地区へ知人を頼って疎開し、町で約1年半暮らしたとされています。旧制三戸町立高等女学校に通っていたことも報じられました。
空襲の恐怖から距離を取り、暮らしを立て直すための避難先として、南部の地が“生活の場”になったことが読み取れます。
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母・黒柳朝が背負った家計――「働く」「行商する」
徹子さんの証言として、父は敗戦後にシベリアの捕虜収容所に抑留され、帰国は終戦から4年後の暮れだったこと、その間、母が女手ひとつで3人の子を育て、働きながら行商で貯めたお金で東京の家の再建につなげたことが語られています。
疎開は「避難」だけでなく、家族の生計を回す“仕事の時間”でもありました。籠を背負い、売り買いをして日々をつなぐ。その現実が、朝の随筆世界(チョッちゃん像)の芯になっていきます。
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南部町にある #さくらいドライブイン さま提供
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「玄関口」の諏訪ノ平駅も、大きな節目へ
諏訪ノ平の玄関口である諏訪ノ平駅は、老朽化などを理由に駅舎の建替え工事が行われます。青森県の発表では、駅舎は1932年建設で、経年劣化やシロアリ被害が著しいことから、安全確保のため建替えを実施するとしています。
工事期間(ホーム出入口変更を含む)は、2025年10月6日15時から2026年2月3日までと案内されています。
疎開者の到着と出発を見送り、地域の時間を刻んできた駅が、これからも“諏訪ノ平の入口”として残っていく。その転換点が、いま訪れています。
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戦時の記憶を「地域の記憶」として残す
記念ルームの計画と駅舎の建替えは、単なる施設整備ではありません。戦時下にこの地で暮らした人の経験を、地名とともに残し、次の世代へ渡していく営みです。
諏訪ノ平のリンゴ畑、雪の季節、そして駅前の風景。黒柳朝と家族が生きた時間を、私たちの足元の歴史として、今あらためて見つめ直してみたいところです。
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【参考(記事末にリンク化推奨)】
・南部町「広報なんぶちょう(令和7年2月号)」記念ルーム計画(開館予定:令和9年4月1日) 南部町公式サイト
・青森テレビ(ATV)報道:疎開の時期・期間、2027年4月開設予定 TBS NEWS DIG
・青森県プレスリリース/青い森鉄道:諏訪ノ平駅舎建替え・工事期間 青森県公式サイト 青い森鉄道







