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1970年代から現在までの弘前市の移り変わり
弘前市は、青森県西部に位置する津軽地方の中心都市で、江戸時代からの城下町として知られる。りんご生産量日本一の農業都市であり、弘前城を中心とした桜祭りやねぷた祭りなどの観光資源が豊富だ。1970年代以降、同市は高度経済成長の恩恵を受けつつ、人口減少、商業の郊外化、気候変動などの課題に直面し、時代ごとに変容を遂げてきた。以下では、10年ごとの時代を区切り、主に社会的(人口・生活)、経済的(商業・農業)、歴史的(行政・イベント)な観点からその移り変わりを概観する。
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1970年代:高度成長の余波と都市化の進展
1970年代の弘前市は、戦後復興から続く経済成長の影響を強く受け、人口増加と都市基盤の整備が進んだ。1970年の人口は約17万4,644人で、1975年には18万1,565人に達した。 この時期、住宅団地の建設が活発化し、例えば1972年に小沢団地、1973年に城東団地が竣工した。 経済的には、りんご産業が基幹を成し、全国シェアの拡大が進んだ。青森りんごの輸出も1968年のピーク後減少傾向だったが、国内消費の増加で安定した。 商業面では、下土手町が繁華街の中心で、1960年代後半から大型店舗の出店が相次いだ。1971年にカネ長武田百貨店弘前店と紅屋商事弘前店が開業し、約250メートルの通り沿いに売場面積が集中。東北有数の商業地として賑わった。 社会的には、1971年に弘前市立病院(前川國男設計)が建設され、医療・文化施設の近代化が進んだ。1976年には弘前市立博物館が開設され、学都としての性格を強めた。 また、弘前ねぷた祭りが観光イベントとして定着し、1970年に「津軽情っ張り太鼓」が企画されるなど、文化振興が図られた。
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1980年代:人口ピークと商業の二極化
1980年代は、弘前市の人口がピークを迎えた時代だ。1980年に19万2,291人、1985年に19万2,989人と最高値を記録したが、以降停滞の兆しが見え始めた。 人口ピラミッドは年少人口が多く、老年人口が少ない「ピラミッド型」だったが、少子化の予兆が現れていた。 経済的には、りんご産業が県内の中核を担い、中南地域(弘前市中心)が栽培面積の約66%を占めていた。 観光も弘前さくらまつりやねぷた祭りが人気を博し、年間来場者が増加。商業では、下土手町と駅前の二極化が進んだ。1976年にイトーヨーカドー弘前店が駅前に開業し、通行量を倍増させた一方、下土手町の集客力が相対的に低下。1977年にかくは宮川が閉店し、1980年にハイ・ローザとして再開したが、商業集積の飽和(人口比で売場面積余剰3万平方メートル)が指摘された。 行政的には、1979年に弘前駅前地区の土地区画整理事業が開始され、市街地再開発が進んだ。 また、1980年に弘前市緑の相談所、1983年に弘前市斎場が建設され、生活基盤が強化された。
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1990年代:人口減少の始まりと郊外商業の台頭
1990年代に入り、人口減少が顕在化。1990年に19万1,217人と前回比減少、1995年に一時回復したものの、全体として少子高齢化が進んだ。 経済的には、りんご産業が全国シェア25%を維持し、1993年に市の木として「りんご」が制定された。 観光面では、さくらまつりが重要文化財として注目を集め、インバウンドの基盤が整い始めた。商業では、郊外への分散が加速。1993年にカネ長武田がビブレ弘前店(現・さくら野百貨店)として城東地区に移転し、下土手町の三大店舗の一角が崩れた。1994年にジョッパル(ダイエー核)が大町エリアに開業したが、モータリゼーションの進展で郊外大型店が消費者を吸収。下土手町の休日通行量が約4割減少した。 周辺では1989年にジャスコシティ藤崎(現・イオン藤崎店)、1992年にイオン柏SC、1997年にエルムの街SCが開業し、「三核戦争」の競争が激化した。 行政的には、1992年に金沢隆市長が就任し、改革が進んだ。
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2000年代:市町村合併と商業の衰退
2000年代は、人口減少が加速し、2000年に19万3,217人、2005年に18万9,043人と減少し続けた。 2006年に弘前市と岩木町・相馬村が合併し、新弘前市が誕生。面積が524.20km²に拡大し、行政効率化を図った。 相馬錩一市長が初代として就任。経済的には、りんご産業の波及効果が食料品製造や運送業に及び、2006年にりんごの森(JA相馬村直売センター)が開設された。 観光はねぷた祭りが重要無形民俗文化財に指定され、来場者が100万人規模に。商業では、大型店閉店が相次いだ。1998年にハイ・ローザ、2000年に今泉本店、2004年に紅屋商事弘前店が撤退。2005年にダイエー弘前店撤退、2007年にジョッパル閉館で大町地区が空洞化した。 中心商店街はマンション建設が進み、「住む街」への転換が始まった。
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2010年代:活性化計画と少子高齢化の深化
2010年代の人口はさらに減少し、2010年に18万3,473人、2015年に17万7,411人と3.3%減。県内5位の減少率だった。 2010年に葛西憲之市長が就任(2018年まで)、2015年に中心市街地活性化基本計画を策定し、土手町・駅前地区の商業強化を図った。 2018年に櫻田宏市長が就任。経済的には、りんご産業のイノベーションが進み、輸出増加や健康志向の活用が提唱された。 観光では、インバウンド調査が進み、夏祭りと弘南鉄道の連携が検討された。 商業では、2011年に中三本体の経営破綻、2019年に紀伊國屋書店弘前店閉店が発生。2012年に中三がジュンク堂書店を導入するリニューアルを実施したが、効果は限定的だった。 市議会定数は2019年から28人に削減された。
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2020年代:コロナ禍と新たな転換点
2020年代は、人口減少が深刻化し、2020年に16万8,466人、2025年推計で15万7,382人と継続。 新型コロナの影響で、2020-2021年に弘前ねぷたまつりが中止され、観光業が打撃を受けた。 気候変動も顕著で、2023年に最高気温39.3℃、2025年に最深積雪160cmを記録し、りんご生産への影響が懸念される。 経済的には、2020年に「りんご課」を設立し、農家以外の人材活用や問題解決を図った。 りんご輸出は高温影響で変動したが、健康志向で需要が増した。 商業では、2024年が激動の年で、中三弘前店とイトーヨーカドー弘前店が閉店、弘南鉄道大鰐線休止により中心商店街の機能が半減。通行量は1993年の5分の1に減少し、個店密度向上やイベントを通じたウォーカブル街づくりが提言されている。 また、2025年に昭和改元100年企画として、Z世代目線で昭和の魅力を再発見する取り組みが進められた。
弘前市は、1970年代の成長から2020年代の課題対応へ移行し、りんご産業と観光を軸に持続可能な発展を目指している。人口減少が進む中、デジタル化や地域参加型の活性化が鍵となるだろう。







