おもいでファンタジア 第六話 羊の目 鵜飼真守

懐かしさとほろ苦さが渦巻く想い出には、ふたたび辿りつこうにも叶わない切なさがある。幼い記憶はしだいに薄れゆき、あの、ひと粒のハッカ飴がもたらした不思議な体験すら、現実のできごとなのか自信がない。

小学校低学年のころ、東は浦町、西は古川辺りまでがこの世の果てで、その先はのっぺりとした想像もつかない世界がひろがる感覚を持っていた。けれど高学年にもなると行動範囲がぐんとひろくなり、みずから自転車をこいで野木和公園のフナや野内川のイワナを釣りにいく。そればかりか久栗坂を越えて浅虫の海で泳ぐし、三内に土器を拾いにゆくこともある。それでも遊びの大半を野球に熱中し、休みのほとんどを草野球に費やしていた。野球とくればグラウンドの確保が欠かせないが、そこは草野球だから専用の球場など使えるはずはなく、子供は手近な広場を我先にと奪いあう。そうしたことから日曜の朝には早起きをして、広場にホームベースとグローブを重ねて置いて場所取りをする。これが子供が暗黙のうちの決めた掟であり、決して破られたことはないルールだ。

長島の子が使う広場は、善知鳥神社の広場、勝田公園、そして裁判所裏の球場で、人が混み合う長小の校庭は敬遠していた。善知鳥神社は、松木屋側にある参道から見て左側の児童公園に対し、右手が広場になっている。ここは長島から近いし公衆トイレがあって便利だが、広場が狭いうえにレフトへ大きなファールを打つと交通量の多い道にボールが飛びでてしまう難点がある。勝田公園は広さが魅力だが、ちょうど外野あたりから丘のようにせり上がり、妙ちくりんな体勢で外野を守らなくてはならない。それに、なんと言っても長島からは少し遠かった。これらに対して裁判所の球場はバックネットがしっかり張られ、平垣に囲まれた造りで邪魔者が入らない。こうした理由から裁判所の裏が一番の人気で、朝はまっさきにそこへ走るのが常だった。球場は裁判所裏のテニスコートと警察署の正面にある検察関係の建物の間にある。バッターボックスから外野を眺めると、センターのむこうにテニスコートと裁判所。レフトの奥には二階建てほどの高いコンクリート塀がめぐらしてあって、そこには悪さをした人が閉じ込められていると、子供は噂をしていた。

良太はライトの守りにつくなりグローブを拳でたたき、気合いを入れる。どちらのチームもユニフォームと私服が混在していて、良太もジーパンとシャツ姿だ。敵チームの一番バッターとして、マモルがバッターボックスに入った。彼もまた私服だ。小柄なマモル前屈みにかまえると、投げづらいピッチャーはストレートでファーボールを与えてしまう。一塁ベースについたマモルは、してやったりと良太にピースサインを送って見せた。続く二番は、野球部でレギュラーを張る大柄な子だ。

「おっきいよー!」

外野は、声をかけあい深めの守りで備える。ピッチャーが振りかぶるやバットに弾かれたボールはレフトへ高々とあがった。レフトは懸命に後ろへ下がるが、ボールのあまりな高さに天を仰いであきらめる。空に白点となったボールは、コンクリート壁のむこうへ落ちてゆく。誰ともなく、

「あーあ」

と、いった声が相次いだ。意気揚々とダイヤモンドをまわるのはホームランを打った打者だけで、なけなしの新しいボールを失ったメンバーは損失に嘆く。

そこで奇妙なことが起こった。気を取り直して試合を再開しようとしたところ、構えていたキャッチャーがマスクをあげて立ち上がった。誰もがその目線のむく先につられると、コンクリート塀からこちらにボールが投げ返されたのだ。二度三度とバウンドするボール。ショートを守っていた子は、なにを思ったのか、ボールを塀のむこうへ投げ返した。

「ばがでねな!」

たまらず誰かが叫んだが、不思議なことにボールはまた投げ返されてくる。閉じ込められた悪人のきまぐれか、はたまたその噂は根も葉もない嘘っぱちで、親切な人が投げ返してくれただけなのか。その答えが子供にはわかるはずもなく、謎は謎のままプレイが再開された。
試合は淡々と進み回を重ねるが、この日に限ってどういうわけかライトにボールが飛んでこない。手持ち無沙汰な良太がズックのつま先で土を蹴ったころ、ファースト側に大きなファールフライがあがった。ボールは塀を越えた道路で大きくバウンドし、県病の敷地に転がっていく。

「おら、行ってくるじゃ!」

良太は塀を跳び越えると、道路を渡って県病の敷地に入った。ここは病院の正面と違い小さな裏口になっていて、締め切りなのか人の出入りを見たことがない。わずかな場所に職員のものらしい車が二台停められていて、角にあたるところに小さな小屋が建っている。良太は膝をついて車の下を見るが、ボールはない。もしかして小屋のほうかと振り返ると、中からなにやら物音がした。これまで気にとめなかった小屋だが、あらためて見るとセメント造りの頑丈な造りで、硝子のない開け放しの窓には縦に何本も鉄格子がはめられている。物置にしても窓硝子がないのが不思議だ。良太は片手にグローブをはめたまま、ゆっくりと小屋に近づく。また、ゴソリとした音がした。窓からは、むせるほどの臭いが溢れでていて、良太は悪い予感がしたものの、グローブを外した手を窓の縁にかけて、つま先立ちになった。
真っ暗闇のなかでなにやらうごめいていて、大きな動物が何匹かいるらしい。犬よりはるかに大きく、厚い毛に覆われた獣は前屈みになって無心に草を食んでいる。ここに動物がいると知れたらきっと誰もが驚くだろうと、浮かせていた踵を地につけたが、中から野太い声がした。それは山羊のようであり、それでいて牛のように太い鳴き声だ。ふたたびつま先立ちになって中を覗くと、こんどは幾分暗さに目がなれて、獣の容姿がはっきり見えるようになった。

――羊だ。

良太は確信したものの、病院がどうして羊を飼っているのかが理解できない。そのとき、前屈みになっていた手前の一匹が、良太の気配に気づいてゆっくりと頭をあげた。すぐに横顔をこちらにむけるが、まぶたをあげた瞳はしっかり良太を見捉えていて、異様なほど横に長い黒曜石ににた瞳孔が、落ち着きなく揺れる。

「君がぼくを食べにきたのかい?」

「えっ!」

良太が思わず声をだしたのは当然だ。これまで草を噛むことだけに没頭していた口が、上下の唇を人のようにまくり上げて声をだした。

「それとも、つらい注射をたくさんしたあげくに切り刻むのかい? ぼくらは狭い場所に閉じ込められて、いつ果てるともわからない命に不安を抱きながらも、ただただ空腹をまぎらわすためにひたすら草を噛むのだよ。この境遇に置かれた者の苦しみと恐れが理解できるか?」

良太は、とんでもないと思わず首を振る。そもそも、羊が話すことの異常さ否定できる余裕すらない。

「ぼくはただ、ボールを探しに……」

「ぼくはただ、ぼくはただ、ぼくはただ……情けない奴だ!」

羊は鼻を鳴らして激しく体をふるわせると、残りの二匹も強い足踏みで応える。

「君は、たかだか飴の好き嫌いで先生を困らせただろ?」

良太は、はっとした、怒る羊は、知恵先生が見せる幻なのだ。良太は鉄格子二本を掴んだまま辺りを見まわすが、先生の姿はない。

「ハッカ飴を毛嫌いするくせに、ぼくらの肉は平気で喰らうだろう。なんて身勝手でろくでなしなんだ!」

「とんでもない奴だ!」

「とんでもない奴だ!」

二匹が相づちを打ち、良太を責め立てる。

「おまえらは、身勝手な好みでぼくらを殺すんだ!」


AC 1999  平成十一年

穏やかな春の海は、波ひとつたてることなく視界の果てまで続いている。遠くにいる白い貨物船の汽笛や群れる海鳥の声は届かないが、公園で戯れる母子の賑わいが季節にふさわしいやさしさを感じさせる。

「どうしちゃったの? センチな顔なんかして」

「ちょっと……昔のことを想いだしてさ」

「また飴の話?」

良太は、そうだとばかりにベンチの背もたれに背筋をのばす。 万里江は、そうした良太を問いつめることなく自分も海に目線を外した。

「アイス、喰いたくね?」

「うーん。まぁ、食べたいけど」

歯を見せた良太は、自分が買ってくるとベンチから離れた。

青森観光物産館の自販機で棒つきアイスを買った良太は、万里江がいるベンチ側とは別の出口からでて、アイスの包み紙をはがした。風がではじめていた。忘れたころにぶり返す記憶が、こうしてひとりの時間を欲したのを自覚している。いましがた使った出入り口は人の出入りが少なく、海沿いに張られた公園の柵に手をあてる女性がひとりいるだけだ。女性は、海風に長い髪を揺らしていた。良太は、まるで知り合いを見つけたように歩み寄る。

「先生。おひさしぶりです。ぼく、ハッカ飴を食べられるようになりましたよ」

良太は、口にしていたチョコミントのアイスを女性に見せる。振り返る人は、あのころのままの知恵先生で、やさしく口角をあげた。

「慣れ親しんだ建物や柳町の川、それから大好きな模型屋、立ち読みをした本屋、遊んでいた神社の公園までもなくなってしまって……それだけじゃない。こんなにも子供が少なくなってしまう将来の青森を教えられても、僕はただ傍観するしかなくて、それどころかいまは県外にいて、こうして遊びにくるときじゃなきゃ……」

「いいのよ、リョウちゃん。ごめんね。わたし、べつにいじめたつもりじゃないのよ」

口をひらいた先生に、良太は激しく首を振る。

「いいんです。先生はいろんなことを教えてくれたし、それに……掛け買いのない人に会わせてくれた」

ふいに強くなった海風が先生の長い髪をあおり、その鼻すじが隠れたと同時に万里江の声がする。先生は消えた。まるで、風になって過去へ立ち去ったようだ。

「遅いと思ったら、もう! ひとりで食べてるんだ!」

手にしたアイスのもう一個をもぎとった万里江は、包み紙をはがしはじめる。

謝る良太は、じつは知恵先生が現れたのだと説明をする。

「先生って、あの保育園の先生?」

「うん。けれど、会えるのは今日が最後だってなんとなくわかるんだ。どう、この話を信じられる?」

のぞきこむ良太に、万里江はしっかりと頷いた。

「信じなきゃ、わたしたちの運命も否定することになるわ」

「――あのとき、バスセンターで君からもらったチーズバーガーの味は忘れられないよ」

もう一生いってなさいと笑う万里江に、そのつもりだと良太は返す。


青森にマックがはじめて店をだしたころ、良太は高校生だった。時の移り変わりの不思議に、この町に中学生の万里江がいるはずだと思うと、いてもたってもいられない気持ちになったが、そうそう都合よく巡る会えるはずはない。それが仕事で上京をして三年が過ぎたとき、取引先に万里江という女性がいて、人づてに青森出身と聞いて驚いた。

「あの唐突ですが、青森のバスセンターで男の子にハンバーガーをあげたことがありますか?」

目が白黒する。まさにそのときの彼女はそんな様子だった。あの万里江だと確信した良太は、思い切って核心に迫る。

「その男の子は良太と名乗ったはずで……その、つまりそれが僕なんです」

万里江ははじめあっけに取られたが、すぐにそんなはずはないと笑いだした。

「その子はわたしが中学のとき、まだ小学校低学年くらいだったのよ。それがどうして年上のあなたなの?」

信じられないのは無理がないと、良太はひとつ息を漏らす。けれど、このまま引き下がっては奇跡的な再開が無駄になってしまう。

「君はコンタクトに変えたの? ほら、あのとき君はエンジ色をしたセルフレームのメガネをかけてたよね。それに、あるはずのないバスセンターの出来事をどうして僕が知ってるの? 君はアーケードが低くなったって驚いてたよね」

そこまで言われた万里江は、どうにもわからないと首を振る。

「でも、リョウタくんはわたしより小さい子だったのよ……」

良太は、それでもバスセンター自体が奇跡だから、それが接点になって二人が会ったとしか考えられないと話す。

「ほんとにほんとに、あのリョウタくんなの?」

「おひさしぶりです。万里江さん。あのときは、ありがとう」

おたがい勤め人の二人は、休みを合わせて帰青した。奇跡的な再会が縁で交際をはじめた二人だが、良太はこうして知恵先生の幻をふたたび見たことに深い意味を感じる。

「公園のこの辺りはさ。僕が小さいころは海だったんだ。ハゼやカレイ、アブラメだってたくさん釣れたよ。港には現役の青函連絡船がきて、小学生の修学旅行は連絡船で函館に行ったんだ」

「わたしも、公園になる前のことはなんとなくわかるわ」

「あの辺に製氷所があってさ。天井からトラックの荷台にどっさり氷を落としたんだよ。トラックがいないとき、そこの下はいつも水がだらだら落ちてたから避けて通ったな……」

良太の着メロが鳴った。昨年流行った宇多田ヒカルのオートマティックを登録していて、サビのメロディはメールの受信を告げている。始まったばかりのiーmodeを申し込んで以来、このようにメールニュースが頻繁に送られてくる。

「西暦二〇〇〇年問題だってよ。大丈夫なのかなぁ」

「二〇〇〇年代って、なんか、ピンとこないわよね」

群れを離れた海鳥が二人の前を横切ると、むかい風を両翼に受けてまっすぐに上昇する。それは頂点に行きついてから失速したようにふらふらと下降したが、身を斜めにして二三度羽ばたいて群れのいる沖に遠のいていった。

「先生から教えられたとおりの青森になって、僕はそれを眺めながらなんにも生かせなかった。じいちゃんやかあさんは亡くなって、親しい幼なじみともそれきり会ってないや……」

わたしがいるじゃないと口をとがらせた万里江は、群れへ戻った海鳥の一羽を探すように空へ目をむける。

「西暦二〇〇〇年、そして平成の先の青森ってどうなってるのかしら。そして、わたしたちはそのころ、どうしてるんだろう」

「ほんと、世の中は、がらっと変わってるんだろうな」

「わたしね……」

良太は、そこで言葉をとめた万里江の横顔を見詰める。

「どうなるかわからない未来って、わくわくしてたまらないなぁ」

懐かしくてほろ苦い想いでの詰まる過去には決して戻れない。幼いころの記憶は薄れるが、あの不思議な体験が真実なことを万里江は知っている。万里江は、これから先が楽しみでならないといった。まだ見ぬ青森の未来と自分たちの将来は、ひややかで辛いがほんのりと甘い、あのハッカ飴が象徴しているように思えてならない。

第六話 羊の目(了)

Author: 鵜飼真守

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