おもいでファンタジア 第二話 かみすがま 鵜飼真守

懐かしさとほろ苦さが渦巻く想い出には、ふたたび辿りつこうにも叶わない切なさがある。幼い記憶はしだいに薄れゆき、あの、ひと粒のハッカ飴がもたらした不思議な体験すら、現実のできごとなのか自信がない。

昼からの雪雲が流されて、晩になると眩い星々が空いっぱいに満ちていた。良太の住む長島界隈には、福の湯、富士の湯、そして磯の湯などの銭湯がある。このように星の見える晩は、煙突から立ちのぼる白い煙がはっきりと見える。
老人の家には風呂がない。都合、老人に連れられて銭湯に通ったが、小学校入学を来春に控えたこのごろでは友達と一緒のことが多くなる。なにしろ大手を振って晩に友達と遊べるのだから、子供にとって楽しみでしかない。
数ある銭湯のなかでも、福の湯が老人の家の裏手にあることから、自ずと福の湯に通うことが一番多くなる。今夜はおなじ町内のシンジと約束をしたので、行き先は福の湯に決めていた。

雪国の夜はしんとして青い。雪のない日はなおさらで、電灯が途切れた暗い道を歩くと、辺りに建つ家々の屋根は切り絵のように真っ黒だが、空や辺りがほんのりと青味を帯びる。ガサガサとおしゃべりな雪が落ちないときはしんと静かだが、ひとたび人が歩けば、ザラメのようにかたい雪がザクザクと音をたてる。このような雪道だから、銭湯の客はみんな長靴を履いて通う。

「わだば、やっぱり白影がいいな」

シンジは、まるで昼間の遊びから話が途切れていないかのように口をひらく。

「なして?」

津軽弁が板についてきた良太がそう返すと、

「白影だば、たごで空ば飛べるべ!」

と、答えて、空に舞いあがる凧をまねて両手をヒラヒラと揺らしてみせる。

「わだば赤影だ。赤影参上!」

良太が赤影の決め台詞を叫ぶや、二人は風のように駆けだした。仮面の忍者赤影は子供の人気番組で、チャンバラに鬼ごっこと、なにかと赤影の登場人物をなぞらえて遊ぶことが多い。二人はザラメ雪を蹴散らしながら、駆けに駆けた。そうするうちにあらたな雪が降りはじめ、電柱の灯りで粉のように照らされる。二人はゲラゲラとはしゃぎまわるが、家々の前に積まれた身の丈を超える雪山が生け垣のように物音を吸いとってしまい、癇癪を起こした大人に怒鳴られることはない。勢いよく先頭を走っていた良太が轍に足をとられて尻餅をつくと、抱えていたタライから石鹸やシャンプーが飛びだして辺りの雪に埋もれてしまった。良太は雪にまみれた両手をブルブルと振るい、シンジとともに風呂道具を探しはじめる。

「早ぐめっけねば、じさまででくるべ」

「んだんだ、それだって」

じさまとは風呂屋の親爺のことで、銭湯の終わりが近づくと客を追い払うように掃除を始める。あの電気ブラシをブルブルとまわされた暁には、湯船で遊ぶどころじゃない。

道具を拾った二人は、先を急いで福の湯までたどり着いた。体はとうに冷え切っているが、暖簾の隙間からあふれてくる湯の香りでほっとする。

番台に小銭を渡すや勢いよくシャツをまくり上げる二人は、肌着を丸く編まれた脱衣籠に放り込み、仕上げにバスタオルでフタをした。こうして誰もがする嗜みによってできた籠は、まるで無数の蟻塚のように脱衣所を埋めていて、似通ったバスタオルがあると、間違って他人の籠をあけてしまうことがある。

二人は浴室のガラス戸を引いた。なかは駆け込み客で混んでいて、なかよく二人ならべる場所が空いていない。仕方なく良太とシンジは離れた場所に腰をおろしたが、良太の両脇には白髪の老人と恰幅のよい中年の男が手ぬぐいで体をこすっていた。良太は正面の鏡にできた曇りをとろうとお湯をかけた。お湯が曇りとともに流れ落ちたとたん、良太は後ろにのけぞり椅子から転げ落ちる。鏡のなかには知恵先生の顔があり、仰天する良太をじっと見詰めている。そして案の定、ハッカ飴を食べさせようと白い手をのばす。

「良太!」

シンジの声がした。シンジは早くも湯船の縁に腰をかけていて、早く来いと手招きをする。良太は、鏡の先生から逃れるように湯船へ急いだ。

ぬるい湯船には先客の大人が二人。シンジはプールさながらに飛び込むと、大きなしぶきが飛んで大人は顔をしかめるが、子供がくれば茶飯の振る舞いだと知っているのか、いさめるようなことはしない。遠慮気味に湯船に入った良太は、飛び込んだまま隣の熱い湯船に通じる横穴を通り抜けようとするシンジを目で追った。河童さながらに泳ぎの達者なシンジだが、湯船を仕切る壁にある長方形の穴をすり抜けるところで、まるで虫があがくように手足をジタバタさせはじめた。良太の眉があがった。シンジは身頃まで穴を抜けたところで尻がつかえたのだ。

――あぶない。

良太がそう思ったせつな、またしても大きな水しぶきが弾け、大人がシンジの足首を掴んで穴から引っこ抜いた。それは、良太の隣で体を洗っていた恰幅のよい男だ。激しくむせるシンジに周りの大人はそれ見たことかと笑っているが、良太はこのときほど背筋が凍る思いをしたことがない。

すごすごとそれぞれの洗い場に戻ると、恰幅のよい男も戻ってきて何事もなかったように髭を剃りはじめる。

「あの……おじさん、さっきはありがとうございます」

良太は神妙になると関東口になるが、それを聞いた男の手が止まり、良太をのぞき見る。

「ボク、ここの子じゃないの?」

「僕は東京で生まれて、そして千葉で……んと、それから青森に来ました」

「やっぱり! ここは青森なんだ。周りの話し言葉でそうじゃないかと思っていたよ。叔父さんは東京なんだ」

青森だと知らないくせに、ここにいる? 思いもよらない返事に、良太は戸惑って首を傾げた。男は、さも合点がいったのか上機嫌に体を揺らす。男の話によると、気がついたら脱衣所で服を脱いでいたそうで、浴室に目をむければ昭和然としたレトロな眺めであり、銭湯好きな男としては、とりあえず入浴を始めたらしい。

「今どき、こんな銭湯は貴重だからね」

釈然としない話だ。銭湯は長島だけで三軒あるし、すこし新町まで足をのばせば映画館の並びに姫の湯だってある。どの町でも銭湯の煙突が立つのは当たり前で、珍しくなんてない。

「東京には銭湯がないの?」

「あぁ、ほとんどないね。よほど下町の老舗を探さなきゃ拝めたもんじゃない。あっても、ありきたりのスーパー銭湯ぐらいだよ。てっきり、青森もそうだと思ってたんだけどなぁ……」

スーパーと聞いて良太の目がかがやくが、男が矢継ぎに言葉をつなげる。

「俺は今どきのスーパーなんかより、こんな感じのレトロ銭湯が好きだなぁ。それにしても、あの脱衣籠は凝ってるね。普通は鍵付きロッカーが当たり前だろ。あれで盗難とか起きないのかな?」

脱いだ服をわざわざロッカーに仕舞う? それに鍵をかけるなんて聞いたことがない。

「映画のポスターも圧巻だよ。昭和な感じをよく再現していて、すごくマニアックだね」

脱衣所のポスターは、若大将から東映の任侠映画、そしてチキチキバンバンやファントマなどの洋画ものが隙間なく貼られている。

「昭和な感じって……僕は、あそこに貼ってる妖怪百物語をじいちゃんと観にいったよ!」

「百物語って――まさか大映版の? 映画館で観た?」

「大映はフクシスポーツの近くにあるし……」

男は怪訝な顔になって辺りを見まわした。おりしも風呂屋の主人が電気ブラシを重たげに持ち込んだときで、客にむけて、さも早く帰れといわんばかりにブラシをまわし始める。その格好はステテコにランニングシャツ、シャツには腹巻きを重ねていて、頭にはさらし布の鉢巻きをしている。

「あの――ボク、いまの年号は……何年だい?」

いまさらな質問に良太は歯を見せた。

「昭和四十三年」

「良太、いぐべ!」

シンジがまた湯船に誘う。銭湯をでる前にしっかり体を温めないと、帰りに凍えてしまうからだ。良太は頭を抱える男を差し置いて、湯船につかった。

「変なおじさんいだんずや」

小声の良太は、顔をはんば湯にしずめてブクブクと泡をだす。

「なしたなした!」

変なおじさんと聞くや、シンジの目がきらめく。

「さっき、おめばと助げたおじさんいだべ?」

シンジは意味がわからないのか、キョトンとしている。

「ほら、おめの足ば引っ張って助げでけだべな!」

つい先ほどのことをどうしてわからないのだと、良太は鼻を赤くふくまらせる。

「あそごさ座っでる――」

顧みた洗い場に、男の姿はない。 もうあがったのかとガラス越に脱衣所を見るが、男のかけらもなかった。

「おめ、のぼせでまったんでねんず?」

ゲラゲラと笑うシンジに反論できない良太は口をとがらすが、バスセンターの出来事を思えば、これも知恵先生が見せた幻なのだと、不満を飲み込んだ。

湯上がりのコーヒー牛乳は格別だが、二人は意図するところがあって、飲まずに福の湯のむかいにある薬屋に駆け込んだ。そこの入り口には冷凍庫があって、天板の硝子引き戸からアイスクリームが透けて見える。棒つきやおっぱいアイス、メロンカップなどいろいろな種類があるが、二人は決まって棒付きから選ぶ。なにしろ棒付きなら安くて、せいぜい二・三〇円で買えるからだ。銀紙で包まれたミルクバーは捨てがたい。けれど、風呂あがりの二人が選んだのは、ペンギンの絵が描かれたクリームソーダのアイスだ。

「これくださーい!」

いつものように奥から現れたのは、ハゲ頭に白いフサフサな眉のおじいさんだ。足が悪いのか、白熊のように大きな体をユサユサ揺らして歩くのはいつものことで、小銭を受け取ると二人にアイスを渡した。

雪はまだ降りつづいていた。 二人は洗いざらしの髪に雪を積もらせながら、夜道を歩く。きんきんに冷えるアイスをかじっても、寒さを知らない。

「へば!」

「へばな!」

別れを告げたシンジは、タライの石鹸を鳴らしながら舞い落ちる雪のむこうへ消えてゆく。言葉が絶えると凍みた雪の踏み音が大きくなる。良太は銭湯の不思議なできごとを思い返した。あの男は、いまが昭和だと知って驚いた。そして、ほんのわずかな間に銭湯から消えてしまったのだ。

「先生ば見れば、不思議なごと起ぎる」

あの男は先生の幻もろとも現実ではなかったのか? どうにもわからず激しく首を振った良太は、頭の違和感に足を止めた。いつの間にか濡れた髪が凍みていて、試しに指でひねるとポキリと折れた。

「こいだば、かみすがま、だべな」

独り笑う良太は、老人が待つ家に急いだ。

 第二話 かみすがま(了)

Author: 鵜飼真守

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